銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

銅像あるある その18

№18.銅像探し(4)

 

 最近は、銅像ハンティングに出かける前に徹底的に調べまくる。

 ①「日本の銅像探偵団」のホームページやそれ以外の銅像関連サイトを見る

 ②東京にある各県のアンテナショップの観光案内所で市町村のパンフ蒐集

 ③ネットで銅像の写真を探しまくる(場合によっては銅像の写真に写り込む背景から

  場所を特定)

 ④Googleマップの「ストリートビュー」機能で、該当ポイントの周りを見て、ポイン

  ト内の場所を特定する。

 ⑤車で廻ることが多いので、銅像ポイントの住所を入れる(カーナビに入れるのは住

  所が一番です)。

 ほとんど探偵の技である。結果、行く前からもう銅像を見た気になってしまい、かつてあったワクワク感が半減した気がする…。

 

 というわけで、2018年は数年前から「有言不実行」だった銅像ブログを開設してしまい、1年間とりあえず存続させることができました。ひとえに読んでいただいている皆様のおかげです。2019年は、せめて週1~2は記事を書いていきたいな、と思います。

撮りためた銅像の写真は数多くあるのですが、如何せん10年も前のものは記憶が…。ブログの力で記憶を呼び戻したいと思います。

秋田県編 その12

〇小田野直武  (1750<寛延2>年~1780<安永9>年)
江戸時代の画家。秋田藩士。角館生まれ。平賀源内から洋画を学び、「秋田蘭画」と呼ばれる一派を作った。源内の推薦で『解体新書』の挿絵を担当した。 

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<小田野直武像>
場所: 青柳家秋田県仙北市角館町表町下丁3)
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2012年8月26日
説明:この像は石像である。青柳家と小田野家は親戚で、現在角館武家屋敷群の一角を為す「青柳家」にこの像は置かれたようだ。敷地内のは「解体新書記念館」もある。近くの「石黒家」には『解体新書』初版本の写しが展示されている。また田町には「小田野直武顕彰碑」があり、解体新書の表紙をレリーフ化して石碑に貼ってある。
 
〇佐藤義亮  (1878<明治11>年~1951<昭和26>年)
実業家。新潮社の創設者。

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<佐藤義亮像>
場所:新潮社記念文学館(秋田県仙北市角館町田町上丁23)
竣工: 1953<昭和28>年7月
像高:
作者: 朝倉文夫
撮影時: 2012年8月26日
説明:この像は、新潮社のロビーにある像と同じである。1953年に角館町の「佐藤義亮先生顕彰会」が、火除け地広場に立てたが、1999<平成12>年に現在の総合情報センター正面玄関に移設した(複雑なようだが、施設全体が「総合情報センター」。その一部が「新潮社記念文学館」のようだ)。
 
 
村野孝顕  (1901<明治34>年~1989<昭和64>年?)
 曹洞宗僧侶。アメリカでの布教活動に従事。曹洞宗の海外布教伝を編集。帰国後「かくのだて幼稚園」を創設。

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 <村野孝顕像>
場所:久米山常光院(秋田県仙北市角館町西勝楽町25)
竣工: 1983<昭和58>年
像高:
作者: 小金丸幾久
撮影時: 2012年8月26日
説明:この像は「かくのだて幼稚園」の創設30周年記念で作られた寿像。どうもその後「かくのだて幼稚園」は廃園となっているようだ。
 
 
日蓮 

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日蓮像>
場所:学法寺(秋田県仙北市角館町西勝楽町63)
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2012年8月26日
説明:寺は、東北の名家芦名家に繋がり、須賀川藩の二階堂家の菩提寺でもある。門前に立つ。像の台座に貼っている「お勉強じぞう」は、Googleストリートビュー(2018年7月)にも見えるので、ずっと貼ってあるようだ。 私の写真ではパウチされた紙のようだが、ストリートビューでは御影石に彫ったものに変わったようだ。画面の左下にいる石のお地蔵さんのことらしい。
 
〇濱田謹吾  (1854<嘉永7>年~1868<明治元>年)
肥前(現長崎県大村藩士。戊辰戦争に鼓手(進軍をリズミカルに進めるため、勇気づけるために太鼓をたたく兵士)として従軍。1868年の出羽刈和野秋田県仙北市)の戦いで戦死。享年15歳。着衣の襟もとに母の歌「二葉より手くれ水くれまつ花の君がためにぞ咲けよこの時」の短冊が縫い付けられていたという。 

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<濱田謹吾像>
場所:神明社秋田県仙北市角館町岩瀬117)
竣工: 1987<昭和62>年
像高:
作者:
撮影時: 2012年8月26日
説明:厳密には神明社よりも南側の丘(天神山)の上に立つ。神明社とは別の登り口もある。謹吾少年は襟元の母の歌のおかげで当地に手厚く葬られ、1979年には長崎県大村市秋田県角館町姉妹都市になった。現存している謹吾少年の写真と比較すると、大人びた写真に対し、この像は子どもっぽ過ぎる気がする。少年の墓は、角館の常光院と大村市の浜田家墓地(久原1丁目)にある(大村市銅像は大村公園にある)。

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※写真は、大村市観光情報サイトより

 


〇円満造(えまぞう)  (1868<明治元>年~1945<昭和20>年)
「ドンパン節」の元唄の作者。本名高橋市蔵。若くして大工となり、宮大工として活躍、「当方の左甚五郎」と呼ばれた。三味線や唄が得意で、仕事の合間に手斧で拍子を取り、秋田甚句の合いの手を独立させたのが「円満造甚句」。これを1935年ごろ、大工仲間で民謡歌手の黒沢三一がアレンジしたのが「ドンパン節」である。

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<円満造像>
場所: 大仙市中仙総合支所(秋田県大仙市北長野茶畑北長野茶畑141)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2012年8月26日
説明:宮大工なので、背中にコダシを背負い、左手に手斧を持つ。近くの「道の駅なかせん」にあるからくり時計の上には、円満造が米俵に腰かけている。飄々とした感じの変人だったらしく、この像もその感じが出ている。
 
 
 
〇坂本理一郎  (1861<文久元>年~1917<大正6>年)
 政治家。雅号は東嶽。羽後国千畑町(現秋田県仙北郡美郷町)に生まれ、若くして上京、さまざまに学んだあと帰郷し、郡会議員、県議会議員衆議院議員3期、さらに貴族院議員となった。地元の農業の普及、教育に貢献した。村づくりにも尽力し、一丈木台地を公園に、その下に役場・学校などの公共施設を配置し、そこから各地区へ6本の直線道路を放射線状に配し、松・杉で植栽するなど、かなりモダンなものだった。

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<坂本利一郎像>
場所:一丈木公園(秋田県仙北郡美郷町浪花一丈木1-3)
竣工: 1955<昭和30>年(元像は1923<大正12>年)
像高:
作者: 関長造(元像は佐藤泰山)
撮影時: 2012年8月26日
説明:1923年建立の像は、1943年に金属供出で撤収され、1946年に顕彰碑が立っていた(題字は井上広居)。その後1955年に銅像が復興された。フロックコートを着た、動きのない像である。自宅(千屋中小森91)は遺族により町に寄贈され、家屋は当時の四分の一程度だが、庭園は当時のまま残されている。ここに胸像があるらしい。

 

 

◎撮り損なった銅像

☆浅利佐助(秋田県鹿角市花輪観音堂27-3 ㈱浅利佐助商店内)

 1872<明治5>年創業の浅利佐助商店3代目。味噌・醤油を醸造している会社。

内藤湖南秋田県鹿角市十和田毛馬内柏崎 旧宅蒼龍窟)

毛馬内柏崎新城本丸付近。東洋史の学者。京都帝大教授。邪馬台国論争では畿内説を主張した。

☆小坂正治郎(秋田県男鹿市船川港椿中山 県道59号線沿い)

 男鹿市の市議会議長だったらしい。

☆山城ミヨ(秋田県大館市比内町扇田南扇田79 寿仙寺)

 戊辰戦争秋田戦争の際、久保田藩の軍夫の要請に、亡くなった夫の代わりに男装して参加、炊事と物資運搬に励んでいたが、大舘の二井田街道で敵弾に被弾して戦死。靖国神社の女性第1号の祭神となったそう。

葛巻久八(秋田県秋田市雄和田草川字鱸155―55 ㈱八永南部家敷本社)

 「南部家敷」という飲食店(そば・天ぷらなど)のチェーン店の社長らしいですね。ホームページを見ると、ニ宮金次郎の精神ということで、本社入り口には「二宮金次郎」像もいます。

秋田県編 その11

〇歌舞伎(勧進帳の像) 

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<歌舞伎(勧進帳)像>
場所:明治百年通り(秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字松ノ下2=康楽館住所)※康楽館よりやや南
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2012年8月26日
説明:小坂町には、幕末から始まる銀、金を掘る小坂鉱山があった。その後は銅や亜鉛、鉛が主体となり、鉱山は1990年まで存続したが、現在は廃坑となり都市鉱山のリサイクル施設が稼働している。経営した藤田組はインフラの整備もおこない、1910<明治43>年には「康楽館」という芝居小屋も竣工される。この建物は現存し、国の重要文化財になっている。現在も松竹大歌舞伎などを上演していることから、こんな銅像が立っている。
 
〇小坂鉱山事務所を臨む
 

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<小坂鉱山事務所を臨む像>
場所:小坂鉱山事務所前(秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字古館48-2)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2012年8月26日
説明:小坂鉱山事務所を眺める2人の夫婦を再現した像。当時の衣装を着て、男性は洋装、女性は和服である。鉱山事務所は、1905<明治38>年に小坂鉱山の事務所として建設。1997年に役目を終え、2001年に現在地(元小坂鉱山病院)へ移築された。写真を撮ってこなかったが、これ以外に旧美園マリア園「天使館」前に、シスターと子供像。小坂鉱山事務所前に、外国人技術者とその妻。康楽館前に、芝居のビラを配る人(これらは2016年竣工だったらしい)。

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(後ろから撮った方が絵になるね)
 
〇クルト=アドルフ=ネット―  (1847年~1909年)
 ドイツ人の鉱山技師。1874<明治6>年に日本政府に招かれ、鉱山冶金技師として小坂鉱山に赴任(~1877年)、銀の精錬において日本最初の湿式精錬を実現した。その後東大理学部教授として日本の鉱山近代化に寄与した。

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<55.   クルト=アドルフ=ネット―像>
場所: 小坂鉱山事務所3F(秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字古館48-2)
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2012年8月26日
説明:小坂鉱山事務所3Fの小坂鉱山の常設展示内にネット―は2体の石膏像としている。一体は家族と過ごす像、もう一体は久原房之助と話す像である。
 
久原房之助 (1869<明治2>年~1965<昭和40>年)
 山口県生まれの実業家、政治家。1890<明治24>年に藤田組に入社し、29歳で事務所長心得となり、小坂鉱山を銀山から銅山へと復興させることに成功した。その後日立鉱山を経営、久原鉱業(のちの日本鉱業)、日立製作所などを創設し、政界に入って政友会総裁、逓信大臣(田中義一内閣)を務めた。
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久原房之助像>
場所: 小坂鉱山事務所3F(秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字古館48-2)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:  2012年8月26日
説明:小坂鉱山事務所3Fの常設展示内に、ネット―と話をしている姿で登場している。

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立山弟四郎(たてやまていしろう)(1867<慶応3>年~1937<昭和12>年)
農業指導者。陸奥国鹿角郡毛馬内村(現秋田県鹿角市)生まれ。郡内で耕地整理組合、小作人組合を結成し、種苗交換会では中心となって活動した。小学校時代の師、和井内貞行の十和田湖開発を助け、故郷に立山文庫(現十和田図書館)を創設した。

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立山弟四郎像>
場所:立山文庫継承十和田図書館内(秋田県鹿角市十和田毛馬内字上陣馬19-5)
竣工: 1958<昭和33>年11月
像高:
作者: 永山義孝
撮影時: 2012年8月26日
説明:郷土の偉人。この施設の元が立山氏の寄贈からスタートしたものなので、こんな像が玄関を入ったところに鎮座している。
 
〇和井内貞行  (1858<安政5>年~1922<大正11>年)
十和田湖開発の先駆者。陸奥国鹿角郡毛馬内村(現秋田県鹿角市)生まれ。小坂鉱山に勤務しながら十和田湖の養魚事業に着手し、多くの失敗を繰り返す中、1903年に放流したヒメマスが1905年に成魚となって回帰したことから、十和田湖養魚事業に成功した。このことが十和田湖の観光開発にも寄与した。十和田湖湖岸北西部には、夫婦を祀った和井内神社がある。
 

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<和井内貞行像>
場所: 十和田南駅(秋田県鹿角市十和田錦木浜田)
竣工: 1950<昭和25>年5月
像高:
作者: 永山義孝
撮影時: 2012年8月26日
説明:十和田南駅前にいる。鹿角市の先人顕彰館前には、和井内貞行のレリーフ像がある。
 
辰子姫

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辰子姫像>
場所:御座石神社(秋田県仙北郡西木町桧木内相内潟1)
竣工: 1981<昭和56>年
像高:
作者:
撮影時: 2012年8月26日
説明:御座石神社の辰子姫は、下半身が蛇になった姿で作られている。御座石神社(ございのいしと読む)は、辰子姫も祀っていて、美の神だという。
 
 
〇たつこ
 

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<たつこ像>
場所:
竣工: 1968<昭和43>年
像高:
作者: 舟越保武
撮影時: 2012年8月26日
説明:田沢湖に伝わる「辰子姫伝説」は次の通り。類まれな美しさを持った娘・辰子が、その美しさを永遠に保ちたいと思ったあまり、龍となり、田沢湖の主になってしまう。また八郎潟にも人間から龍になった八郎太郎がいた。両者は結局結ばれ、田沢湖で済むようになった結果、八郎潟はどんどん浅くなり、田沢湖は冬も凍らなくなった。
写真は、移動中に車内から撮ってしまった。