銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

東京 早稲田大学編 その3   【再更新】

 〇飛田穂洲  (1886<明治19>年~1965<昭和40>年)

 茨城県東茨城郡大場村(現水戸市)出身。本名飛田忠順。水戸中学(現水戸一高)を経て、1907年に早稲田大学法学部に入学し、野球部に入部する。チームでは二塁手で、第5代主将も務めた。1919年~25年早稲田大学野球部の初代監督に就任し、「早大野球部の黄金期」を築いた。大学在籍中に開発したスコアブックのつけ方は「早稲田式」と呼ばれ、改良が加えられながらも現在も一般に使われている。学生野球の発展に寄与し、「学生野球の父」と呼ばれた。1960年に日本野球殿堂入り(特別表彰)をした。「一球入魂」の言葉は彼の言である。 

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飛田穂洲像>

場所: 東京都新宿区西早稲田1-6-1(総合学術情報センター入り口付近)

竣工:

像高:

作者: 菊池一雄

撮影時: 2011年10月10日

説明:「穂州」「穂洲」は本人が使い分けていたようだが、表記には混乱がある。銅像の台座には「穂洲」が使われている。この地は野球部グラウンドがあり、「戸塚球場」「安部球場」と呼ばれていた。他に水戸一高内(旧水戸城中御門跡)、大串ふれあい公園(現在は水戸市総合運動公園)にも銅像がある。 

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 (これは大串ふれあい公園時代の飛田穂州像)

安部磯雄  (1865<元治2>年~1949<昭和24>年)

 明治~昭和期の社会運動家、教育者。アメリカ留学後、キリスト教社会主義を唱え、帰国後社会民主党を結成、のち社会民衆党社会大衆党の委員長となる。衆議院議員(4期)、この間に早稲田大学教授となり、野球部の初代部長となる。早慶戦の糸口を作り、野球部のアメリカ遠征も実現させ、アメリカから多くの技術、練習法を持ち帰り、他のチームへも広めた。こうしたことから「日本野球の父」と呼ばれる。 

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安部磯雄像>

場所: 東京都新宿区西早稲田1-6-1(総合学術情報センター入り口付近)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2011年10月10日

説明:安部磯雄像の台座にはバットなどの野球道具が彫りこまれている。また飛田・安部像のある一角は、「ナイター試合発祥の地」の碑文もあり、野球関係者にとっては聖地の一つであろう。 

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大隈重信  (略)

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大隈重信像>

場所: 東京都新宿区大久保3-4-1(西早稲田キャンパス 理工学部

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2018年4月17日

説明:理工学部のキャンパスの大隈重信像は、地下鉄副都心線西早稲田駅からの入り口を入ってすぐにある胸像である。

 

 

竹内明太郎(たけうちめいたろう)  (1860<安政7>年~1928<昭和3>年)

 明治・大正期の実業家、政治家(衆議院議員)。高知県宿毛市の出身。父は竹内綱、弟に吉田茂早稲田大学理工学部の設立者。小松製作所(現コマツ)の創設者、日産自動車の前身の快進社などの創設者。ちなみに国産一号自動車の「ダットサン(DAT)」は、支援者の田健治郎のD、青山禄郎のA、竹内のTから取っている。 

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竹内明太郎像>

場所: 東京都新宿区大久保3-4-1(西早稲田キャンパス 理工学部西門前)

竣工: 2011年6月6日

像高:

作者:

撮影時: 2018年4月17日

説明:この像はコマツの創立90周年にあたり、大学に寄贈されたもの。竹内像は、出身の高知県宿毛市(MYブログの2018年7月29日号<高知県編その28>に掲載)、創設した高知県立高知工業高校、コマツの設立地の石川県小松市に(こまつの杜<旧こまつ小松工場跡>、遊泉寺銅山跡)もある。

東京 早稲田大学編 その2

〇平沼淑郎  (1864<文久4>年~1938<昭和13>年)

 美作国(現岡山県)津山出身。経済学者(法学博士)。早稲田大学商学部部長、第3代学長。平沼麒一郎の兄。  

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<平沼淑郎像>

場所: 東京都新宿区西早稲田1-6-1(11号館<商学部>1F)

竣工: 1938<昭和13>年

像高: 

作者: 朝倉文夫

撮影時:2018年4月17日

説明:商学部校舎の中に長らくあったが、11号館の新設に伴い、1Fのロビーのようなところに鎮座している。平沼は「商学部の父」と呼ばれ、1935年に老朽化した商学部校舎の建て替えを、商学部OBの寄付だけで成し遂げた。

 

〇鹽(塩)澤昌貞  (1870<明治3>年~1945<昭和20>年)

 茨城県水戸出身の経済学者。東京専門学校英語政治科(現在の政経学部)を首席で卒業。早稲田大学第4代学長、第2代総長。大隈重信の知恵袋と呼ばれ、東京専門学校生え抜きの人で、早稲田卒業生初の教授、1943年には初の定年退職者となった。 

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 <鹽沢昌貞像>

場所:東京都新宿区西早稲田1-6-1(3号館<政治経済学部>1F)

竣工: 1940<昭和15>年

像高:

作者: 朝倉文夫

撮影時: 2018年4月17日

説明:像は鹽沢の古希と政治経済部長の功績をたたえて作られた。

  

〇大隈綾子  (1850<嘉永3>年~1923<大正12>年)

 江戸生まれ。大隈重信の2番目の妻。50年以上にわたって夫を助け、「賢妻」と呼ばれた。重信が逆らえない「かかあ天下」で、重信からも「うちの番頭」と信頼されていた。 

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 <大隈綾子像>

場所:東京都新宿区西早稲田1-6-1(大隈庭園内。地蔵山の北側)

竣工: 1927<昭和2>年

像高: 

作者: 朝倉文夫

撮影時:2012年7月30日

説明:早稲田大学唯一の女性像。1927年に嗣子の大隈信常氏より寄贈された。この大隈庭園は、江戸時代井伊掃部頭・松平讃岐守の下屋敷大隈重信が改造した大隈私邸。大隈の死後、邸宅とともに大学に寄贈された。ここは常時は見れず、大学の授業のある月~土(9:00~17:00、10月から3月は16:30。天候不順日は閉園)と、入りにくい。綾子像は大正天皇の即位大典に参加した姿(御大礼袴姿)で、1916年に一度造られたが、学生が騒いで建設中の像を壊す事件(早稲田騒動)が起こっている。

 

 

〇田中穂積  (1876<明治9>年~1944<昭和19>年)

 長野県長野市生まれ。東京専門学校政治科卒業。早稲田大学第4代総長。財政学者。貴族院議員。

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<田中穂積像>

場所: 東京都新宿区西早稲田1-6-1(大隈庭園内。地蔵山の北西側)

竣工: 1957年

像高:

作者: 朝倉文夫

撮影時: 2012年7月30日

説明:早稲田大学75周年に際し、校友会が建立。1939年には女子学生の学部入学を認めたらしい。ちなみに、「美しき天然」(サーカスやチンドン屋の呼び込みの曲として有名)を作曲した海軍軍楽隊の田中穂積は別人(出身の山口県岩国市と亡くなった長崎県佐世保市銅像あり)。

 

 

孔子   (BC552年~BC479年)

 中国春秋戦国時代の思想家、哲学者。儒家の始祖。諱は丘、字は仲尼。周国初期の復古を理想とし、身分秩序の再編と仁道政治を掲げ、弟子たちと教団を作った。『論語』は孔子と弟子たちの語録。 

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孔子像>

場所: 東京都新宿区西早稲田1-6-1(大隈庭園内。紅葉山の南側)

竣工: 2008年

像高:

作者: (山東省政府が設計・製作)

撮影時: 2012年7月30日

説明:2008年に中華人民共和国政府から寄贈された。中国が日本の大学に孔子像を寄贈したのは初めてだった。

 

 

市島謙吉(春城) (1860<安政7>年~1944<昭和19>年)

 越後国(現新潟県阿賀野市生まれ。東京英語学校(現東京外国語大学)、東京大学に入るが、父の事業の失敗で中退、明治14年の政変で下野した大隈重信に就いて、立憲改進党の設立に参画した。1885年から東京専門学校(現早稲田大学)で政治学を教えた。第4回衆議院議員選挙で当選、3期を務めたが、体調を崩して辞職した。その後早稲田大学初代図書館長となり、大学の教育に寄与した。

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 <市島謙吉像>

場所: 東京都新宿区西早稲田1-6-1(総合学術情報センター2Fホール内)

竣工: 2010年

像高:

作者: 櫻庭裕介

撮影時: 2018年4月17日

説明:市島謙吉の生誕150周年を記念して作成された。これと同様のものが新潟他県新発田市の市島邸内にも設置された(なんでも大学のものより台座がちょっとだけ高いそうで)。

東京 早稲田大学編 その1

大隈重信 (1938<天保9>年~1922<大正11>年)

 ご存知早稲田大学の創設者。肥前国(現佐賀県佐賀市出身。肥前藩士として蘭学を学び、明治時代以降には官僚(大蔵卿など)、政治家(明治14年の政変では下野し立憲改進党を創設、外相<条約改正に尽力したが、テロで片足を失う>、首相<8代、17代>、内相などを歴任)として活躍した。1882年に下野した際、東京専門学校(現早稲田大学)を、柳田藤吉の創った北門義塾の跡地(東京府早稲田)に開設した。ここには大隈の別邸があった。1902年に「早稲田大学」と改称した。 

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大隈重信像>

場所:東京都新宿区西早稲田1-6-1(早稲田大学早稲田キャンパスの住所)

竣工: 1932<昭和7>年10月17日

像高: 298cm

作者: 朝倉文夫

撮影時: 2006年12月17日

説明:有名なこの像は、1932年に早稲田大学の創設50周年と大隈の10回忌と兼ねて造られた。条約改正時のテロで右足を失ってからの姿を模したので、杖をついている。大隈講堂を向くように立てられている。新宿区の指定有形文化財である。その大隈講堂内北側廊下には小野惣次郎が、1907年(大学創立25周年と大隈の数え70歳を記念)に造った大隈の立像がある。この像が本来はガウン姿の現在の大隈像の位置に立っていた。この初代の大隈像は通常は入ることのできない位置にあるが、外から垣間見えるという。

これ以外に、早稲田の各キャンパスに大隈の胸像が立つ。初代の大隈像の塑像原型(レプリカ)が大学の大隈記念室に、初代を模した像が佐賀市の大隈記念館に設置されている。国会議事堂内にも1938年造られたもの(朝倉文夫作)がある。また、1916年に芝公園に衣冠束帯姿の大隈像があった(朝倉文夫作)が、戦時中の金属供出で現存しない。

  

高田早苗  (1860<安政7>年~1938<昭和13>年)

 早稲田大学の初代および3代学長。江戸深川の出身で、東京大学文学部を卒業し、小野梓と知り合って東京専門学校の設立に参加、講師などを歴任し、1907年から総長・学長制を敷くと初代学長(総長は大隈重信)となった。一方で1887~90年までは読売新聞主筆となり、1890年から衆議院議員として6期(立憲改進党)勤め、1915年からは貴族院議員となり、第2次大隈内閣で文相となった。早稲田大学には「高田早苗記念研究図書館」がある。法学博士。 

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高田早苗像>

場所: 東京都新宿区西早稲田1-6-1(7号館前)

竣工: 1932<昭和7>年

像高:

作者: 藤井浩祐(のち浩佑)

撮影時: 2006年12月17日

説明:有名な大隈像の脇の木陰に座っている。作者の藤井は、日本の銅像の経年劣化の色合いが気に入らなかったようで、工夫を重ねたらしい。また台座を垂直に見せるために上方を下方よりも小さくしているらしい。

 

 

◎小野梓  (1852<嘉永5>年~1886<明治19>年)

 「早稲田大学建学の母」と呼ばれ、東京専門学校の創立の中心人物。土佐国(現高知県宿毛市の生まれ。明治維新後政府に出仕、司法省、会計監査員で活躍したが、明治14年の政変で大隈の下野に行動を共にし、立憲改進党の設立に参加した。しかし肺結核を悪化させて死去した。

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<小野梓像>

場所: 東京都新宿区西早稲田1-6-1(27号館=小野梓記念館)

竣工: 1935年

像高:

作者: 本山白雲

撮影時: 2012年7月30日

説明:小野は1883年に東洋館書店を開業したが、そこの店員だった坂本嘉治馬は小野の死後、その遺志を継いで冨山房を開業した。その坂本が小野の没後50年を記念して、1935年にこの像を造って大学に寄贈した。当初は大隈庭園内に設置されたが、1957年に7号館に小野記念講堂が作られると行動内に移設、2007年に現在地に小野梓記念館(27号館)が建設され、小野梓記念講堂も移転すると像も再び移設された。

 

 

坪内逍遥  (1859<安政6>年~1935<昭和10>年)

 美濃国(現岐阜県美濃加茂市の出身。作家、評論家、劇作家、翻訳家。本名は雄蔵。東京専門学校(現早稲田大学)の文学科設立の中核となった。また日本近代文学の先駆者であり、演劇芸術の発展に貢献した。「早稲田の四尊」(高田早苗坪内逍遥・天野為之・市島謙吉)の一人。1883年から東京専門学校の講師となり、文芸誌「早稲田文学」を創刊した。1928年に坪内の古希(70歳)とシェイクスピア全集の完訳記念に坪内博士記念演劇博物館(5号館)が作られた。正面は入り口でなく、坪内の発案でイギリスエリザベス朝の劇場「フォーチュン座」を模した舞台となっており、その左右に入り口がある。作家としては弟子の二葉亭四迷に劣っており、劇作家や演劇の近代化への寄与の方が大きい。 

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 <坪内逍遥像>

場所: 東京都新宿区西早稲田1-6-1(5号館前=演劇博物館)

竣工: 1962<昭和37>年

像高:

作者: 長谷川栄作

撮影時: 2006年12月17日

説明:この像は演劇博物館の創立70周年を記念して造られた。右手を差し伸べているが、よく見ると磨かれたようになっている。これは坪内像と握手すると「合格する」という噂が広まっているからである。