銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

佐賀県編 その4

〇原口忠次郎  (1889~1976)

 官僚・政治家。小城郡芦刈町(現小城市)生まれ。戦前は内務省の土木出張所長などを務め、戦後神戸市助役を経て、1948年に参議院議員(1期)、1949年から神戸市長を5期務めた。ポートアイランドの埋め立て、その土砂を削った跡地をニュータウン化(鶴甲・渦森台など)し、神戸高速鉄道、さんちか(地下街)などの整備をおこなった。  

f:id:tagutti:20190727114700j:plain

<原口忠次郎像>

場所:小城市芦刈地域交流センター「あしばる」(小城市芦刈町三王崎349)

竣工: 1977年3月

像高:

作者: ㈱ヒロカネ

撮影時: 2019年5月31日

説明:像の立っている場所は、小城市に統合した旧芦刈町役場跡。像は駐車場を入ってすぐ左にいる。

  

香月熊雄  (1916~1995)

 官僚、政治家。杵島郡白石町生まれ。佐賀県庁に努め、副知事を経て、1979年に佐賀県知事(3期)。在任中に吉野ケ里遺跡が見つかり、遺跡の保存を決めている。 

f:id:tagutti:20190727114749j:plain

 <香月熊雄像>

場所:国本会館(杵島郡白石町大字廿治二本杉1620-1)

竣工: 1995年10月

像高:

作者: 古賀義治

撮影時: 2019年5月31日

説明:立っている国本会館は、佐賀農業高校の同窓会館。同校の門前にある。香月は同校の卒業生である。ただ施設はやや荒れていて、寂しい感じがした。

 

〇久野二一  (1908~?)

 政治家。杵島郡有明町牛屋(現白石町)生まれ。農協の組合長などを経て、佐賀県議会議員を12年間務めた。

f:id:tagutti:20190727114833j:plain

<久野二一像>

場所:JAさが白石中央支所(杵島郡白石町大字遠江183-1)

竣工: 1990年7月

像高:

作者: 古賀義治

撮影時:2019年5月31日

説明:ストリ-トビューでヒロ男爵の指摘に従い、農協の各支所を眺めていて発見した像。支所の建物玄関前に立つ。

 

和泉式部  (978頃~没年不詳)

 平安時代中期の女流歌人。越前守大江雅致の娘。出生地、没地はさまざまな伝承がある(出生地の一つとして福島県石川郡石川町など)。佐賀県白石町もその出生地の一つ。和泉式部について各地に伝承があることについて、柳田国男は「これは式部の伝説を語り物として歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている(『女性と民間伝承』)。京都の誓願寺謡曲誓願寺」(和泉式部を主人公とする能の演目)の舞台となった。 

f:id:tagutti:20190727114916j:plain

 <和泉式部像>

場所:和泉式部公園(嬉野市塩田町大字五反田甲)

竣工: 1995年12月

像高:

作者: 橋本次郎(像の製作は㈱梶原製作所)

撮影時: 2019年5月31日

説明:佐賀県和泉式部の関係だが、佐賀県白石町の福泉禅寺に和泉式部生誕の話が伝わっており、「ふるさとに 帰る衣の色朽ちて 錦の浦や 杵島なるらむ」という歌を残した。公園が嬉野市なのは、福泉禅寺で生まれたが、和泉式部を育てた大国丸夫婦が、塩田郷(現嬉野市塩田町)に住んでいたことからである。 

f:id:tagutti:20190727115025j:plain

 

〇田澤義鋪(たざわよしはる)  (1885~1944)

 社会教育家、政治家(貴族院議員)、思想家。佐賀県鹿島市生まれ。内務省の官僚となったが、日露戦争後の地方の疲弊を見て、地方の経済的、人的基盤立て直しのため、学校教育とは別の勤労青年の「青年団運動」を進め、同郷の下村湖人とともに「大日本連合青年団」結成および「日本青年館」建設をした。

 f:id:tagutti:20190727115142j:plain

 <田澤義舗像>

場所:肥前鹿島駅近くのスカイロード交差点付近(鹿島市高津原4241-5)

竣工: 2019年3月

像高:

作者:

撮影時: 2019年5月31日

説明:肥前さが維新博に合わせても銅像は造られており、同像は、アイプリモ佐賀店前(佐賀市唐人町1-2-16)にも下村湖人像とともに立っている。現在田澤の生家跡は田澤記念館(鹿島市高津原434)となっている。

f:id:tagutti:20190727115302j:plain

※よく見ると、佐賀市内の像と県内の関係地に再度造られた像は、像の色が違うんだね…。

佐賀県編 その3

下村湖人  (1884~1955)

 小説家、社会教育家。本名は下村虎六郎(旧姓は内田で、結婚として下村家に養子)。佐賀県神埼郡千歳村(現神埼市千代田町)生まれ。大学卒業後、佐賀県で教師となり、校長にまで昇り詰める。退職後、本格的な執筆活動に入り、1936年から『次郎物語』を書き続けた(第5部は1954年上梓)。 

f:id:tagutti:20190714121851j:plain

下村湖人像>

場所:下村湖人旧宅(神埼市千代田町895)

竣工: 2019年2月

像高:

作者:

撮影時: 2019年6月2日

説明:肥前さが維新博に合わせて造られた1体(当初は佐賀市内の維新博時のみに使用知る予定が、好評のため佐賀市外出身の偉人は、そのゆかりの地にもう1体を造立)。佐賀市の中央通りのアイプリモ佐賀店前(佐賀市唐人1-2-16)には、盟友田澤義舗とともに立っている。

  f:id:tagutti:20190714121957j:plain

(なお、旧生家の中には『次郎物語』の主人公「次郎」の銅像もある)

f:id:tagutti:20190714122140j:plain

 

市村清  (1900~1968)

 実業家、リコーを中心とする「リコー三愛グループ」の創始者佐賀県三養基郡北茂安村(現三養基郡みやき町)生まれ。戦前は苦労をしたが、理化学研究所の陽画感光紙の九州総代理店の権利を譲り受けると、たちまち業績拡大をして「理研光学工業(のちのリコー)」の基を作る。戦後は銀座4丁目に土地を得て「三愛」を作り、さまざまな経営を手掛けて成功した。晩年は技術革新の研究開発助成を目的とした財団を作り、科学技術の貢献に対する「市村賞」を創設した。 

f:id:tagutti:20190714122221j:plain

市村清像>

場所:北茂安小学校(三養基郡みやき町東尾420)

竣工: 1958年春

像高:

作者: 中島快彦

撮影時: 2019年6月2日

説明:当初、みやき町役場にあった市村清像は、隣接する北茂安小学校(市村清の母校で講堂を寄付した)に移設されている。

肥前さが維新博に合わせても銅像は造られており、佐賀市中央通り駐車場前(佐賀市松原1-2-22)にも中冨三郎とともにカメラ(リコーフレックスⅢ)を持つ姿で立っている。また生誕地(三養基郡みやき町白壁)には、市村清生誕100年を記念の「市村記念公園」が造られ、胸像が立っている(2001年。像自体は1962年10月に古賀忠雄が造っている)。他に、リコー本社玄関前(東京都大田区中馬込1-3-6)には座像がある。

f:id:tagutti:20190714122411j:plainf:id:tagutti:20190714123156j:plain

f:id:tagutti:20190714122324j:plain

 

〇木下十四三  (1868~1942)

 政治家。北茂安産業組合長、北茂安村長、佐賀県議会議員、衆議院議員を歴任した。 

f:id:tagutti:20190714122749j:plain

 <木下十四三像>

場所:JAさが北茂安支所(三養基郡みやき町東尾2281)

竣工: 1944年2月

像高:

作者:

撮影時: 2019年6月2日

説明:みやき町役場の市村清像を探索中に偶然見つけた。県道22号線の役場とは反対側にあるJAの施設の入り口付近に立っていた。

  

〇梁井(やない)幾太郎  (1868~1944)

 実業家。三養基郡基山町生まれ。基山町の近代化に尽くし、基山農協の前身の協同組合の建設に努力し、薬種商の梁井商店(ヤナイ一心堂を経て、現フォレストグループ)を作った。

f:id:tagutti:20190714122840j:plain

<梁井幾太郎像>

場所:JAさが基山支所(三養基郡基山町宮浦332-1)

竣工: 1958年1月

像高:

作者: 富岡朝堂

撮影時: 2019年6月2日

説明:農協の建物の裏手にあって、通りからは全く見えない。本人の銘の部分だけが金メッキされている。 

 

〇中冨三郎  (1876~1957)

 鳥栖市出身の実業家。旧姓久光三郎。祖父の起こした「小松屋」を発展させて、「久光兄弟合名会社」を作り、「鬼神丹(健胃清涼剤)」「朝日万金膏(鎮痛消炎貼付剤)」を発売、1934年に「サロンパス」を発売し、ロングセラーとなって同社の基礎を固めた。

f:id:tagutti:20190714122931j:plain

<中冨三郎像>

場所:中冨記念くすり博物館(鳥栖市神辺町288-1)

竣工: 2019年3月

像高:

作者:

撮影時: 2019年6月2日

説明:肥前さが維新博に合わせても銅像は造られており、佐賀市中央通り駐車場前(佐賀市松原1-2-22)にも市村清とともに立っている。両手で「サロンパス」を持った姿で、博物館のアプローチ入り口付近の芝生の中に立っている。館内には、ヒポクラテス像(1985年、中村晋也作)もある。 

f:id:tagutti:20190714123051j:plainf:id:tagutti:20190714123250j:plain

 

銅像情報 その1

アクセス5000オーバーです。ありがとうございます。

そこで、新シリーズです(単に思いついただけですが…)。

銅像に関する新立や移転、廃棄(があったら哀しいですが…)などの情報をつかんだら載せたいと思います。

 

【平田東助像が移転】

 東京都町田市のJA全国教育センター(町田市相原4771)にあった平田東助像が、山形県米沢市の「すこやか広場」(米沢市西大通1-5-60)に移転され、8月31日に除幕式がおこなわれるという。

 

 平田東助(1849~1925)は、羽前国米沢藩(現山形県米沢市)生まれで、農商務大臣、内務大臣などを歴任し、産業組合の振興に尽くした。銅像は1925年に、東京九段下に立てられたが、戦没者追悼記念館(昭和館)の建設に伴い、1996年にJA全国教育センターに移転された。像は高さ2.7メートル、台座は大理石で全体で6メートル、全体の重量が130トンにもなるので、移転作業は大変だと思われる。

 移転場所は、米沢城址よりもだいぶ北の方で、米沢市すこやかセンター(市の保健福祉施設)に隣接する場所。

f:id:tagutti:20190707121951j:plain