銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

高知県編 その6

〇「維新の門」群像  

坂本龍馬那須俊平・掛橋和泉・澤村惣之丞・吉村虎太郎・中平龍之助・前田繁馬・那須信吾の8志士>

 

人物:坂本龍馬は、澤村惣之丞と1862年3月24日に高知から出奔し、この地梼原を経て伊予大洲、長州下関へと脱藩した。3月25日、2人はここ梼原では勤王の志士「那須俊平・信吾」親子の家に泊まった。この親子も1862年に脱藩、父俊平は禁門の変(1864)、子信吾は天誅組の変(1863)で戦死した。

「吉村虎太郎」は梼原の番人大庄屋。武市半平太と勤王党を結成し活躍した。1862年に脱藩し、のち天誅組の変を起こして討ち死にした。

「中平龍之助」はこの地の地下浪人の子。1863年に脱藩し、禁門の変で負傷自決した。

「前田繁馬」は梼原隣の松原村の庄屋の子。1863年に脱藩し、天誅組の変で戦死した。

「掛橋和泉」は梼原町那須常吉家に生まれ、神職掛橋家に養子に入った。吉村虎太郎と親交を深め勤王の志を重ねた。家が裕福だった彼は、脱藩の同志を支援したが、養母の知るところとなり、同志に累が及ぶことを恐れて自決した。

「澤村惣之丞」はその後龍馬ともに勝海舟の神戸海軍塾に学び、龍馬の片腕として活躍した。1868年長崎の警備に当たっていた際、間違えて薩摩藩士を殺し、土佐と薩摩の関係悪化を恐れて自決した。

 

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場所:高岡郡梼原(ゆすはら)町川西路2346 和田城(川西路地区構造改善センター)

の広場

竣工: 1995(平成7)年11月11日

像高:

作者: 濱田浩造

撮影時: 2006年8月24日

説明: 8体の像は、中央に「掛橋和泉」。向かって右側に「坂本龍馬・澤村惣之丞・那須俊平」。向かって左側に「吉村虎太郎・那須信吾・前田繁馬・中平龍之助」。梼原町内外の有志の寄付によりできた。非常に動きがあり、見ていてワクワクする像である。

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   <澤村惣之丞>      <坂本龍馬>      <那須俊平> 

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   <掛橋和泉>      <吉村虎太郎>      <那須信吾>

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   <前田繁馬>      <中平龍之助>