板垣退助 (1837<天保8>年~1919<大正8>)
幕末の土佐藩の武士、明治期の政治家。自由民権運動の主導者で、後藤象二郎らと「民撰議院設立建白書」を提出、その後自由党を結成する。1881年に遊説中、岐阜で暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとされる(本当かどうか不明)。しかし一度も帝国議会に議席を持つことはなく、第2次伊藤博文内閣、第2次松方正義内閣、第1次大隈重信内閣で内相となった。1900年、立憲政友会の発足とともに政界を引退した。
<板垣退助像>
竣工: 1923<大正12>年作られたが、1943<昭和18>年に戦争で金属供出され、1956<昭和31>年に再建された。
像高: 2.20ⅿ(台座4.205ⅿ)
作者: 濱口青果(初代は本山白雲)
撮影時: 2012年1月8日
説明:高知公園(高知城)に立つ。追手門をくぐる手前にある。右手を朝日に向かって伸ばし、左手は腰に添えている。銘板の「板垣退助先生像」は高知出身の首相、吉田茂のもの。台座が高くて写真に撮りにくいものの一つ。
※ほかに板垣退助の銅像は、国会議事堂内中央広間(東京)、岐阜公園(岐阜)、日光金谷ホテル入り口(栃木)、青梅公園(東京)にいる。