銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

高知県編 その32

〇実川八百五郎 (1866<慶応2>年~1962<昭和37>年)

 香美郡香宗村(現野市町)の農家の生まれ。6歳の時、野市村興行中の実川琴三郎の舞台で初舞台。12歳で土佐の名優と言われた嵐寛丸に弟子入りし、主に土佐歌舞伎・共正会で興業、土佐歌舞伎最後の役者として知られた。

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<実川八百五郎>

場所: 高知市本町4-1(タイムズトーエイパーキング前の植え込み)

竣工:

作者:

像高:

撮影時:2012年1月8日

説明:この辺りは戦前、高知随一の歓楽街で、近くに堀詰座という芝居小屋があって、そこでよく興行をしていたということだ。銅像には「芸道九十年」と刻まれている。

 

天照大神

 説明は不要でしょう…。

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天照大神

場所: 高知市帯屋町2-7-2(高知大神宮)

竣工:

作者:

像高:

撮影時:2012年1月8日

説明:石像です。天照大神はこの神社の祭神ですが、その神の使いである鶏が狛犬代わりにいます。生きた鶏もいます。境内には「よさこい稲荷神社」なる摂社もあります。神社は、高知城脇の歓楽街に位置しています。

 

 〇池知義一 (1891<明治24>年~1955<昭和30>年)

 林業家。長岡郡長岡村(現南国市)に生まれる。朝鮮に渡った時、朝鮮の禿山を見て感じるところがあり、帰国後自分の所有する山に植林を始め、民有林としては「日本三大美林」と言われる国見造林を造成した。

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<池知義一>

場所: 高知県森連会館(高知市本町?)

竣工:

作者:

像高:

撮影時:2012年1月8日

説明:おそらく2012年当時は、高知市内の中心地に「高知県森連会館」があったと思われるが、会館は現在、「高知県南国市双葉台7-1」に移転していて、Googleマップでは敷地内に銅像は確認できない。

  

〇村上俊江 (1871<明治4>年~1957<昭和32>年)

教育者。山口県生まれ。1922<大正11>年に高知県立城北中学校(現高知小津高校)校長に就任した。吉田松陰の研究者として知られる。 

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<村上俊江>

場所: 高知市城北町1-14(高知小津高校)

竣工:

作者:

像高:

撮影時:2012年1月8日

説明:校地にあるので外から写真を撮った。台座には「剛健醇美」とある。これは8年間在任した村上が掲げた校是だそうだ。

 

 〇溝渕忠廣

 教育者。昭和30年代に「紀元節」を祝う校長として、有名になった校長。最初は1950<昭和25>年、溝渕氏が繁藤中学校校長に赴任したところから始まり、1953<昭和28>年、繁藤小学校校長に転任し、1955<昭和30>年に校舎改築を機に、式典が盛大となり、新聞報道から賛否の声が全国に広がったそうだ。1963<昭和38>年には校内に神武天皇像を作り、祭典は溝渕氏が校長を退任する1978<昭和53>年まで続いたが、現在では式典は行われず、神事だけが継続されていたそうだ。1894<明治27>年創立の伝統ある学校だが、2013<平成25>年度から休校(事実上廃校か?)中らしい。 

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<溝渕忠廣>

場所: 高知県香美市土佐山田町繁藤2091(繁藤小中学校)

竣工: 1967<昭和42>年12月

作者: 大谷相模掾藤原鼎

像高:

撮影時:2012年1月9日

説明:校門の右わきに、左手に竹刀を持ち、胴着を身につけた凛々しい銅像である。紀元節の復興を主張した人にふさわしい姿ですね。

 

神武天皇

日本の初代天皇。「神日本磐余彦天皇」。

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神武天皇

場所: 繁藤小中学校

竣工: 1963<昭和38>年

作者: 藤曲?清吉

像高:

撮影時:2012年1月9日

説明:紀元節の祭典を続ける中で作っちゃった像。学校正門を少し入った左側の、階段の上に立っている。高い台座の上にあり、総長15mだそうです。その台座には「日本紀元復興喚起之處」文部大臣の書がある。

  

〇薫的 1625<寛永2>年~1671<寛文11>年

 江戸初期の僧侶。土佐国幡多郡中村(現四万十市)生まれ。高知市の瑞應寺の住職をしていた時、亡くなった土佐藩2代山内忠義の戒名を不穏当として抗議、藩の慰留にも耳を貸さなかったため投獄された。投獄後7年の1671年1月、食を断って座禅のまま絶命した。その後しばしば異変があったため、瑞應寺内の墓所の上に「薫的堂」が建てられ、さらに「薫的神社」となった(高知市洞ヶ島町5-7)。神社は入試の神様として、高知では有名らしい。

 

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<薫的>

場所: 高知県香美市土佐山田町楠目2773-1(豫岳寺)

竣工:

作者:

像高:

撮影時:2012年1月9日

説明:豫岳寺17世霊應薫的大和尚。石像である。万松山豫岳寺は曹洞宗の寺院で、1457<長禄元>年建立。領主山田基道が建て、その後は長宗我部氏、山内氏からの帰依を受け、薫的和尚の時に現在地に再興された。エピソードを読むと、薫的さんはかなり「生臭坊主」だけど、こういう反骨芯の強い人が、自由民権運動の地、土佐では好まれるのかもしれません。