〇佐藤三吉 (1857<安政4>年~1943<昭和18>年)
美濃国(現岐阜県)大垣出身の外科医、医学博士。大学南校で学び、1883年ベルリン大学に留学、帰国後東京帝国大教授、医学部付属病院長、初代日本外科学会長、貴族院議員などを歴任した。
<佐藤三吉像>
場所:医学部付属病院前
竣工: 1924年
像高:
作者: 水谷鉄也
撮影時: 2019年1月14日
説明:青山胤通像と並んで立つ。台座には手術中の姿が彫られている。出身の岐阜で1891年に濃尾地震が起こると、被災地へ赴いて被災者の手当てに当たった。ボランティアのはしりであろう。
〇ユリウス=カール=スクリバ (1848<嘉永元>年~1905<明治38>年)
ドイツの外科医。1881年~東大で外科、皮膚科、眼科、婦人科を教えたお雇い外国人。契約満了で一度ドイツに戻るも契約延長により再来日、1901年の退職後は聖路加病院の外科主任などを務めた。日本人妻をめとり、1905年日本で亡くなった(墓所は青山墓地)。
<ユリウス=カール=スクリバ像>
場所: 御殿下グラウンド脇(健康と医学の博物館前庭の隣)
竣工: 1907年4月4日
像高:
作者: 長岡守敬
撮影時: 2019年1月14日
説明:台座を備え、立派な光背付きの像で、ベルツ像と並んで立つ(向かって右がスクリバ)。当初は医学図書館(医学部総合中央館)の建っているところにあった(1961年11月に移転)。スクリバは、日清戦争の講和条約の下関条約締結のため来日した清国の李鴻章負傷事件、ロシアの皇太子ニコライが負傷した大津事件などで、現地で活躍した。
〇エルヴィン=フォン=ベルツ (1849<嘉永2>年~1913<大正2>年)
ドイツの医師。1876年にお雇い外国人として東京医学校(現東京大学医学部)で内科、産婦人科を教える。日本人戸田花子と結婚、1902年に退官後は宮内省侍医を務めた。1905年帰国。
<エルヴィン=フォン=ベルツ像>
場所: 御殿下グラウンド脇(健康と医学の博物館前庭の隣)
竣工: 1907年4月4日
像高:
作者: 長岡守敬
撮影時: 2019年1月14日
説明:『ベルツの日記』で有名。この本から、当時の西洋人の観た日本の様子がよくわかる。また草津温泉を再発見し、世界に紹介した人物としても有名。草津温泉にはベルツ記念館があり、西の河原には、東大の胸像をコピーしたベルツ像、スクリバ像が並んで立つ。また伊香保温泉には、一番奥の源泉付近(源泉湧出口観覧所)に「若き日のベルツ博士」像が立っている。
〇レオポルト=ミュルレル (1824<文政7>年~1893<明治26>年)
正式にはベンヤミン=カール=レオポルト=ミュルレル。ドイツの陸軍軍医。外科医。1871年に来日し、お雇い外国人として大学東校で、解剖学・婦人科・眼科を担当した。また医師と独立した薬剤師の必要性を説き、製薬学科を設立した。1875年の退官後しばらく宮内省侍医を務め、1876年に帰国した。
<レオポルト=ミュルレル像>
場所: 薬学部東方の木立の中
竣工: 1895年
像高:
作者: 藤田文蔵
撮影時: 2019年1月14日
説明:ピッケルハウベ(プロイセンを中心としたドイツの軍隊、消防、警察などで用いられた頭頂部にスパイク状の頭立のついたヘルメット)をかぶる軍服姿の像。なかなか怖い表情の威厳のある像である。上記のように1895年に教え子たちにより三回忌に立てられたが、第二次世界大戦の金属供出でコンクリート製の複製が造られたが、供出されずに終戦を迎えた。しかし1959年に像は何者かに盗まれてしまった。1964年にコンクリート像に彩色して設置したが、1975年に改めてブロンズ像が造られた。
〇下山順一郎 (1853<嘉永6>年~1912<明治45>年)
薬学者。尾張国(現愛知県)犬山生まれ。大学南校に入り、製薬を学び、薬学博士の第一号となる。帝国大学医科大学の生薬学教授となり、私立薬学校(現東京薬科大)の初代校長となる。私財を投じて薬草園を開設するなど、薬用植物の研究や栽培に努力した。
<下山順一郎像>
場所: 薬学系総合研究棟脇
竣工: 1915年
像高:
作者: 武石弘三郎
撮影時: 2019年1月14日