銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

東京 早稲田大学編 その1

大隈重信 (1938<天保9>年~1922<大正11>年)

 ご存知早稲田大学の創設者。肥前国(現佐賀県佐賀市出身。肥前藩士として蘭学を学び、明治時代以降には官僚(大蔵卿など)、政治家(明治14年の政変では下野し立憲改進党を創設、外相<条約改正に尽力したが、テロで片足を失う>、首相<8代、17代>、内相などを歴任)として活躍した。1882年に下野した際、東京専門学校(現早稲田大学)を、柳田藤吉の創った北門義塾の跡地(東京府早稲田)に開設した。ここには大隈の別邸があった。1902年に「早稲田大学」と改称した。 

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大隈重信像>

場所:東京都新宿区西早稲田1-6-1(早稲田大学早稲田キャンパスの住所)

竣工: 1932<昭和7>年10月17日

像高: 298cm

作者: 朝倉文夫

撮影時: 2006年12月17日

説明:有名なこの像は、1932年に早稲田大学の創設50周年と大隈の10回忌と兼ねて造られた。条約改正時のテロで右足を失ってからの姿を模したので、杖をついている。大隈講堂を向くように立てられている。新宿区の指定有形文化財である。その大隈講堂内北側廊下には小野惣次郎が、1907年(大学創立25周年と大隈の数え70歳を記念)に造った大隈の立像がある。この像が本来はガウン姿の現在の大隈像の位置に立っていた。この初代の大隈像は通常は入ることのできない位置にあるが、外から垣間見えるという。

これ以外に、早稲田の各キャンパスに大隈の胸像が立つ。初代の大隈像の塑像原型(レプリカ)が大学の大隈記念室に、初代を模した像が佐賀市の大隈記念館に設置されている。国会議事堂内にも1938年造られたもの(朝倉文夫作)がある。また、1916年に芝公園に衣冠束帯姿の大隈像があった(朝倉文夫作)が、戦時中の金属供出で現存しない。

  

高田早苗  (1860<安政7>年~1938<昭和13>年)

 早稲田大学の初代および3代学長。江戸深川の出身で、東京大学文学部を卒業し、小野梓と知り合って東京専門学校の設立に参加、講師などを歴任し、1907年から総長・学長制を敷くと初代学長(総長は大隈重信)となった。一方で1887~90年までは読売新聞主筆となり、1890年から衆議院議員として6期(立憲改進党)勤め、1915年からは貴族院議員となり、第2次大隈内閣で文相となった。早稲田大学には「高田早苗記念研究図書館」がある。法学博士。 

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高田早苗像>

場所: 東京都新宿区西早稲田1-6-1(7号館前)

竣工: 1932<昭和7>年

像高:

作者: 藤井浩祐(のち浩佑)

撮影時: 2006年12月17日

説明:有名な大隈像の脇の木陰に座っている。作者の藤井は、日本の銅像の経年劣化の色合いが気に入らなかったようで、工夫を重ねたらしい。また台座を垂直に見せるために上方を下方よりも小さくしているらしい。

 

 

◎小野梓  (1852<嘉永5>年~1886<明治19>年)

 「早稲田大学建学の母」と呼ばれ、東京専門学校の創立の中心人物。土佐国(現高知県宿毛市の生まれ。明治維新後政府に出仕、司法省、会計監査員で活躍したが、明治14年の政変で大隈の下野に行動を共にし、立憲改進党の設立に参加した。しかし肺結核を悪化させて死去した。

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<小野梓像>

場所: 東京都新宿区西早稲田1-6-1(27号館=小野梓記念館)

竣工: 1935年

像高:

作者: 本山白雲

撮影時: 2012年7月30日

説明:小野は1883年に東洋館書店を開業したが、そこの店員だった坂本嘉治馬は小野の死後、その遺志を継いで冨山房を開業した。その坂本が小野の没後50年を記念して、1935年にこの像を造って大学に寄贈した。当初は大隈庭園内に設置されたが、1957年に7号館に小野記念講堂が作られると行動内に移設、2007年に現在地に小野梓記念館(27号館)が建設され、小野梓記念講堂も移転すると像も再び移設された。

 

 

坪内逍遥  (1859<安政6>年~1935<昭和10>年)

 美濃国(現岐阜県美濃加茂市の出身。作家、評論家、劇作家、翻訳家。本名は雄蔵。東京専門学校(現早稲田大学)の文学科設立の中核となった。また日本近代文学の先駆者であり、演劇芸術の発展に貢献した。「早稲田の四尊」(高田早苗坪内逍遥・天野為之・市島謙吉)の一人。1883年から東京専門学校の講師となり、文芸誌「早稲田文学」を創刊した。1928年に坪内の古希(70歳)とシェイクスピア全集の完訳記念に坪内博士記念演劇博物館(5号館)が作られた。正面は入り口でなく、坪内の発案でイギリスエリザベス朝の劇場「フォーチュン座」を模した舞台となっており、その左右に入り口がある。作家としては弟子の二葉亭四迷に劣っており、劇作家や演劇の近代化への寄与の方が大きい。 

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 <坪内逍遥像>

場所: 東京都新宿区西早稲田1-6-1(5号館前=演劇博物館)

竣工: 1962<昭和37>年

像高:

作者: 長谷川栄作

撮影時: 2006年12月17日

説明:この像は演劇博物館の創立70周年を記念して造られた。右手を差し伸べているが、よく見ると磨かれたようになっている。これは坪内像と握手すると「合格する」という噂が広まっているからである。