先日の大雨は佐賀県内を直撃しました。道端に立つ銅像たちは安泰だったのでしょうか?
〇豊臣秀吉 (1537~1598)
戦国期から安土桃山期の武将。織田信長の跡を継ぎ、太閤検地・刀狩などをおこなって、天下統一をした。1592年からは朝鮮侵略(文禄・慶長の役)をし、その最中に病没した。
<豊臣秀吉像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2019年6月1日
説明:現在、無料で公開している博物館内にある。銅像ではなく木像だと思う。朝鮮侵略の際の拠点であった名護屋城および各大名の陣地は、博物館を中心に広大な範囲に点在しており、それを周るのも楽しいかもしれない。
〇にあんちゃん (なし)
1958年初版発行の安本末子の日記『にあんちゃん』から。在日コリアンである安本が佐賀県の炭鉱地帯に生まれ、貧乏で苦労しながら生きた日々を綴ったもの(小3~小5)。タイトルの「にあんちゃん」は次兄の高一をさす。1959年には年間ベストセラーとなり、映画化された。
<にあんちゃん像>
場所: にあんちゃんの里記念碑(唐津市肥前町鶴牧106-77)
竣工: 2001年11月
像高:
作者:
撮影時:2019年6月1日
説明:安本さん一家が生活をしていたのは杵島炭鉱大鶴鉱業所で、この記念碑は著者らがかつて学んだ、入野小学校大鶴分校の跡地である。記念碑は著者の同級生有志によって立てられた。碑の両側に立つブロンズ像は、むかって左が兄の高一(にあんちゃん)。右側が末子(著者)である。
〇中林梧竹 (1827~1913)
書家。肥前国小城藩(現佐賀県小城市)生まれ。明治の三筆の一人(あとの二人は日下部鳴鶴・巌谷一六)。名は隆経、通称は彦四郎。六朝の書法を探求し、書というよりも絵画的な味わいがあったらしい。
<中林梧竹像>
竣工: 2019年3月
像高:約1.6m
作者: ㈱竹中銅器
撮影時:2019年6月1日
説明:肥前さが維新博推進協議会が、佐賀市中央大通りに設置したものの複製を、故郷の小城に設置したもの。机で墨筆をすべらせる構図は珍しいかもしれない(書いているのは「鎮國之山」。72歳で富士山登頂に成功し、富士山山頂の浅間神社鳥居脇にこの文字の銅碑が立てられた。なお碑は銅製のため落雷で傷み、三島海雲氏<カルピス創業者>がペリコプターで降ろして補修したらしい)。
〇聖徳太子 (574~622)
<聖徳太子像>
場所: 小城公園(小城市小城町185)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2019年6月1日
説明:小城公園内の小高い烏森稲荷神社内にある。北側は茶筅塚古墳となっている。小城公園は、もともと小城藩の初代鍋島元茂と2代直能が整備した桜並木と庭園が始まりで、「桜岡公園」として明治期に公園化されたもの。脇には鍋島家の「自楽園」があり、戦後これが市に寄贈されて「小城公園」となった。烏森稲荷神社も鍋島家が勧請したもので、そのあたりがこの地に聖徳太子像のある由来のヒントになるかもしれない。
〇市村清 (略)
<市村清像>
場所:市村記念体育館(佐賀市城内2-1-1-35)
竣工: 1963年3月(増の裏面を見ると、1962年12月に完成したようだ)
像高:
作者: 古賀忠雄
撮影時:2019年6月1日
説明:同体育館は、市村清氏が寄贈をしたもの。坂倉準三の設計で、王冠のようにギザギザした独特の景観が特徴。築50年が過ぎ、現在スポーツ施設としての使用はせず、文化施設的な使い方を模索しているようだ。なお「肥前さが維新博」に因んで造られた像が、みやき町庁舎内(三養基郡みやき町大字東尾737-5)にも立ったようだ。
〇石井亮一 (1867~1937)
社会運動家。佐賀市出身。熱心なクリスチャンで、「濃尾大地震(1891年)」で両親を失った少女たちを引き取って東京に「孤女学院」を開設したが、その中に知的障碍児がいたために、知的障碍児教育の教育の必要性を感じてアメリカに留学し、帰国後同院を「滝乃川学園」と改め、日本初の知的障碍児教育を本格的に始めた。
〇石井筆子 (1861~1944)
社会運動家、女子教育者。長崎県大村市生まれ。1880年フランスに留学し、帰国後津田梅子とともに「華族女学校」の教師となった。その後女子教育振興に尽くした。筆子の最初の結婚で生まれた3人の子のうち、2人に知的障碍があり、亮一の「滝乃川学園」(現在東京都国立市)に預けた経緯から再婚し、その後は夫の亮一とともに知的障碍児教育・福祉に努めた。
<石井亮一・筆子像>
場所: 佐賀市バルーンミュージアム前(佐賀市松原2-2-27)
竣工: 2018年3月
像高:
作者: ㈱竹中銅器
撮影時:2019年6月1日
説明:二人の像は、「肥前さが維新博」に因んで立てられた。また妻の石井筆子像は、出身の大村市にもある(大村藩校であった五教館黒門脇=長崎県大村市玖島1-61。下記右の写真)。