〇志田林三郎 (1856~1892)
明治期の物理学者、電気工学者。佐賀藩(佐賀県多久市)生まれ。多久の学問所「東原庠舎」を経て、工部省工学寮(のちの東京大学工学部)に入り電信学を学び、同学科を首席で卒業、イギリスに留学した。帰国後工部省電信局、工部大学校教授などで電気工学の普及、発展に努め、日本の電気通信の先駆者として活躍したが、激務がたたり、36歳の若さでこの世を去った。
<志田林三郎像>
場所: Alpha Cubic前(佐賀市唐人2-2)
竣工: 2018年11月
像高:
作者: 佐賀県編 その11の※参照
撮影時:2019年6月1日
説明:Alpha Cubicはカラオケショップ。若者が多くいて、写真が撮りにくかった。椅子に座り、右膝の上に電信用検流計を持つ。同型のものが、JR東多久駅前に置かれているが、私が行ったときはこちらのお披露目がされていなかったらしく、ブルーシートでぐるぐる巻きにされていた(がっかり)。
〇黒田チカ (1884~1968)
日本最初の女性化学者。佐賀県佐賀郡松原町(現佐賀市)生まれ。「これからは女子にも教育が必要」との両親の教育方針から、佐賀県師範学校女子部を卒業後、女子高等師範学校理科へ進学、同研究科を経て、東京女子師範学校と改称した母校の助教授(現在は准教授と呼ぶ)になった。その後東北帝国大学理科大学化学科に進み、日本初の帝国大学女子学生に一人となった(ほかに丹下ウメなど)。戦後は母校(現お茶の水女子大学)に戻り教鞭をとった。天然色素の有機化学的研究やタマネギの成分による降圧剤研究などが有名。
<黒田チカ像>
場所: Alpha Cubic前(佐賀市唐人2-2)
竣工: 2018年11月
像高:
作者: 佐賀県編 その11の※参照)
撮影時:2019年6月1日
説明:志田林三郎の右側に立っている像である。右手にフラスコを持つ。モデル写真であろうお茶の水女子大の写真のフラスコはとても小さいが、これは普通のフラスコである。
〇相良知安(さがらちあん) (1836~1906)
佐賀藩出身の蘭方医。長崎でボードウィンに医学を学び、明治政府にドイツ流医学の採用を進言し、採用された。やや押しの強い性格のためか、明治初めは文部省医務局長や第一大学区医学校校長などを歴任したが、1885年を最後に一切の官職を退き、後年は生活に困り、遊女相手の占い師などをしていたという。
<相良知安像>
竣工: 2018年11月
像高:
作者: 佐賀県編 その11の※参照
撮影時:2019年6月1日
説明:伊東玄朴と並んで立つが、向かって右側のベンチに座り、医学書を手にしている像である。調べていると、上野公園のボードウィン像(例の弟と間違えて立ててしまったいわくつきの像)にこの相良知安が絡んでいることが分かった。ボードウィンが石黒忠悳(陸軍軍医として有名)らと上野を散策している際に、石黒が上野の山が大学東校(東大医学部の前身)の校地であり、校舎を移転する旨を伝えたところ、ボードウィンが「こんな幽邃な土地を潰して学校や病院を建てることは途方もない謬見である」と反対し、「東京一の公園」にすべきだと主張した。結果校地は加賀藩上屋敷(現在の灯台本郷キャンパス)となり上野公園ができたのだが、実は上野の山を大学東校の校地にして学校の移転のために尽力したのが、相良だったのだ。上野公園のボードウィン像は、この功績から立てられたのだった。
※肥前さが維新博で作られた『偉人モニュメント』のうち、佐賀県編中で紹介された人物は基本的に割愛していますので、写真だけを一気に載せておきます。(地図は、「肥前さが幕末偉人博覧会」HPより転載)
番号は①(鍋島直正・古賀穀堂・鍋島茂義)②(大隈重信・副島種臣)
⑤(辰野金吾・曽禰達蔵)⑥(中林梧竹)⑦(田澤義舗・下村湖人)
⑧(志田林三郎・黒田チカ)⑨(森永太一郎・江崎利一)
➉(伊東玄朴・相良知安)⑪(石井亮一・石井筆子)
⑫(中冨三郎・市村清) です。
(アイプリモ前の「田澤義舗・下村湖人」)
(白山名店街入り口付近の「森永太一郎・江崎利一」)
(中央通り駐車場前の「中冨三郎・市村清」)