〇水上善治 (1828~1898)
幕末・明治期の社会事業家。越中国高草嶺村(現富山県南砺市平村)生まれ。藤井庄兵衛の次男に生まれ、下梨の水上善三郎家に養子に入った。養蚕の普及、五箇山紙の復興、道路の改修など地域の発展に尽くした。旧平村役場(現南砺市平行政センター)の場所が水上家の屋敷跡である。
<水上善治像>
竣工: 1956年1月
像高:
作者: 米治一
撮影時: 2018年12月2日
説明:行政センターの入り口付近に胸像は立つ。養蚕の普及に関しては、群馬県などの養蚕の先進地へ出かけ、しっかりと学んだ上に製糸から機織りまで一貫して行えるように研究するなど、先見の明のある人物であったようだ。
〇蓮如 (1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派の第8世宗主。「本願寺中興の祖」。「御文」という、教義を手紙の形で分かりやすく説いたものを「講」という門徒のグループに送り、これを読み聞かせることで布教をした。越前の吉崎御坊などを本拠に、北陸地方での布教活動をおこなった。
<蓮如像>
竣工: 1987年11月(1936年6月のものは1944年に金属供出)
像高:
作者: 松沢工芸㈱
撮影時:
説明:善徳寺は今から約530年余り前に蓮如によって建てられた。現在は東本願寺の城端別院となっている。山門入って左側の鐘楼の奥に立っている。
〇稲塚權次郎 (1897~1988)
農学者。富山県南砺市生まれ。東京帝国大学から農商務省の農事試験場に入り、稲の品種改良研究(「水稲農林1号」はコシヒカリ、ササニシキ、あきたこまちの先祖を完成させる)、小麦の品種改良研究をする。
<稲塚權次郎像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2018年12月2日
説明:2015年には『NORIN TEN~稲塚権次郎物語』として映画化されている(主演は仲代達矢)。写真を見る通り、すでに「雪囲い」がされている。雪囲いは、豪雪地帯において雪の重みや雪の深さから建物などを守るためにおこなうもので、板や藁などを用いる。筆者は12月の頭に富山県を訪れたのだが、近年は冬の訪れが遅くなり、こうしたことを失念していた(というか、銅像にまで施していると思わなかった)。筆者の訪れたときは写真のように雪一つなく快晴の状態だったが、城端地域以外でも、南砺市の平地区では2か所でこうしたことに出くわした。下記の写真のように、藁ではなくブルーシートやビニールシートで覆われていた。考えるに、銅像の雪囲いは、普通の銅像は雪に覆われても壊れることはないと思われるので(多少は痛みが速くなるかもしれない)、「銅像」の人物に対しての敬意(雪に囲まれると「寒い」のではないかという)の表れなのではないか。
(たいら郷土館の「鉢蠟清香」) (行徳寺の「道宗龍明」)
※この2か所は五箇山だが、また行かねばなるまい…💦
〇棟方志功 (1903~1975)
版画家。青森県出身。刀鍛冶職人の息子として生まれたが、囲炉裏の煤で目を病み、極度の近視となった。少年時代にゴッホの絵に出会い、「わだばゴッホになる」と言い、自らの版画を「板画」と称して活躍した。
<棟方志功像>
竣工: 1949年
像高: 22㎝
作者: 永原廣
撮影時: 2018年12月2日
説明:志功と富山とのつながりは、1945年に富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に戦時疎開をしたことである。志功はこの地の自然をこよなく愛し、福光町栄町に住居を建て、自宅8畳をアトリエ「鯉雨画斎」と名付けた。また住居は谷崎潤一郎が「愛染苑」と呼んだ。現在、上記の場所に移転し、一般公開されている。その庭に小さな志功の座像がある。
〇松村謙三 (1883~1971)
政治家。富山県西礪波郡福光町(現南砺市)出身。早稲田大学卒業後、実家の薬屋を継ぐ。町会議員、県会議員を経て、1928年に衆議院議員選挙に当選、戦前は立憲民政党に属し、連続6期当選した。戦後は公職追放になるが、追放解除後、改進党から自由民主党に属し、7期連続当選した。戦後厚生大臣、農林大臣、文部大臣を歴任し、松村派を作った。1951年には自由民主党総裁選に出馬したが敗れた。日中国交正常化に尽力した。
<松村謙三像>
竣工: 1971年9月
像高: 81cm
作者: 松村秀太郎(鋳造は堺幸山)
撮影時: 2018年12月2日
説明:経歴を見てわかる通り、かなりの人物であり、福光の街の中心部に記念館を持つが、館は閑散とし(使っているようには見えなかったが、顕彰会は活動をしているようだ)、庭にある銅像には生け垣を越えて忍び込むような形になってしまった。
〇河合良成 (1886~1970)
官僚、政治家、実業家。富山県西礪波郡福光町(現南砺市)出身。隣家は松村謙三宅だった。父は伏木(現高岡市)で汽船会社を経営し、少年期は伏木で育った。東大卒業後、農商務省に入省したが、米騒動に絡んで引責辞職した。その後いろいろな会社を経て、戦後期に貴族院議員となり、第一次吉田内閣で厚相となる。その後経営不振だった小松製作所社長となり、再建にあたった。1952年には衆議院議員に当選した。戦後の日中・日ソ経済交流にも尽力した。
<河合良成像>
竣工: 1974年11月
像高: 70cm
作者: 清水多嘉示(鋳造は堺幸山)
撮影時: 2018年12月2日
説明:小松製作所は父の勤めていた会社なので、この名前は見覚えがあり、創業の地である石川県小松市にも氏の銅像がある(小松空港前の石川県立航空プラザ:石川県小松市安宅新町丙92)。東京赤坂の本社社屋の屋上には長くブルドーザーが載っていたが、氏が戦後業績不振の小松製作所に、ブルドーザーの製作を勧めたところから、同社のイメージへとつながったものらしい。
〇山本宗平 (1841~1906)
江戸期から明治にかけての教育者。加賀国金沢(現石川県)出身。漢学を修め、1873年に福光小学校に奉職して校長など歴任し、以後34年間初等教育に尽くした。教え子に松村謙三、河合良成がいる。
<山本宗平像>
竣工: 1910年4月
像高: 94cm
作者:
撮影時: 2018年12月2日
説明:HP「南砺市郷土Wiki」によれば、松村謙三・河合良成・山本宗平の胸像の立つ地は「松村記念公園」が正式名称らしい。松村記念館の前庭のような形状なのだが…。南砺市の銅像群はこのサイトにお世話になった。このように地域のHPには、郷土の偉人についての紹介が多く載っていて、参考にある。なおこのHPによると、福光にはあと2体の銅像が居るらしい。臼中ダムの東岸をしばらく行った広場にいる「大森儀松」像。もう1体は城端町の桜ヶ池公園の駐車場付近にいる「井原仁志」像。今度行くときにチェックしないと!