銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

富山県編 その8

〇阿曽三右衛門 (1611~1687)

 越中国礪波郡野尻郷本江村(現富山県南砺市福野)生まれの郷士。江戸時代初期に福野町南砺市福野)、福光町(南砺市福光)、津沢町(小矢部市津沢)の町立てをおこなった。これらの地域である越中国礪波郡は陸上交通の便が悪く、運搬や商売をするためには、城下町の今石動か城端、井波に行かなければならなかった。そこで三右衛門はこれらの町の中間地に新しい町を作る必要があると説き、それを実行した。福野は1650年、福光は1651年、津沢は1660年に町立てがされた。 

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<阿曽三右衛門像>

場所:恩光寺(富山県南砺市福野1803)

竣工: 2003年9月

像高:

作者: 斎藤侊琳(製作は南部祥雲)

撮影時: 2018年12月2日

説明:1786年に作られた農学者、加賀藩山廻役の宮永十左衛門正運の顕彰碑文(碑は建てられなかったが)により、三右衛門の事跡が明らかになった。三右衛門の墓所は現在の阿曽記念緑地公園(小矢部市津沢字折田沢715)である。公園内には三右衛門の石像が立っている(行っていない…)。なお、三右衛門の身長は293.4㎝と伝わっているが、どうなのだろうか?

  

神武天皇  略

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神武天皇像>

場所:井波招魂社(富山県南砺市松島16)

竣工: 1909年3月

像高:

作者:

撮影時: 2018年12月2日

説明:招魂社は井波城の二の丸跡(現松島古城公園)に建つ。神武天皇像は「忠魂碑」という形で立つが、北日本新聞の記事によれば、先に碑が立ち、後から「井波招魂社」になったようだ。2019年には造立100周年ということで修復が為された。古城公園の隣にある井波八幡宮には、宮司銅像(座像)があるようだが、行っていない(政治家綿貫民輔氏の先代らしい)。

 

〇上田又一  (1871~1949)

 政治家、実業家。富山県東礪波郡東山見村金谷(現富山県砺波市)生まれ。富山県議会議員を務め、庄川電源開発に尽力し、庄川町の発展に寄与した。 

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<上田又一像>

場所:庄川水記念公園(富山県砺波市庄川町1550)

竣工: 1990年7月

像高:

作者: 斎藤尤鶴

撮影時: 2018年12月2日

説明:庄川水公園は広く、これを書くために確認していると、浅野総一郎、砂土居行雄(庄川合口ダム脇)の2体の銅像が立っているらしいが、見つけられなかった。

  

〇綽如(しゃくにょ)上人 (1350~1393)

 南北朝期の浄土真宗の僧。真宗本願寺派5台宗主、真宗大谷派5代門主。1384年に本願寺を継承するも、寺務を第2子の巧如に委任し、越中国杉谷に草庵を結んで活動した。後小松天皇の信任が厚く、京と越中を行き来していたようだ。1390年越中国井波に瑞泉寺を建立し、ここを拠点に教化にあたった。 

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 <綽如上人像>

場所:六角堂前(富山県南砺市本町4-142)

竣工: 1990年11月

像高:

作者: 板橋一歩

撮影時: 2018年12月2日

説明:馬上の綽如上人像は、後小松天皇から中国の書簡の解読を命じられ上洛する際、この地で愛馬がいななき、その蹄の先からコンコンと泉が湧きだした故事による。上人はこの地を霊地として瑞泉寺を建立した。

 

〇吉田六左 (?~?)

 農業従事者、政治家。富山県砺波市鷹栖生まれ。戦前、鷹栖村助役から村長となり、富山県農業協同組合会長ともなった。 

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 <吉田六左像>

場所:鷹栖ふれあい広場(富山県砺波市鷹栖1051)

竣工: 1957年4月

像高:

作者: 米治一

撮影時: 2018年12月2日

説明:鷹栖公民館の近くの「鷹栖ふれあい広場」(鷹栖公民館のバス停そば)にいる。この広場は保育所の駐車場になっているようだ。銅像が寿像なので、裏の銘文を見ても生没年がわからなかった。1894年に農学校を出ているので、1870年代後半の生まれだろうか?

  

〇大矢四郎兵衛 (1857~1930)

 政治家、実業家。越中国礪波郡鷹栖村(現砺波市鷹栖)生まれ。富山県議会議員、鷹栖村長を歴任後、1898年に衆議院議員に当選(3期)。実業家としては、中越銀行、鷹栖銀行の創設、中越鉄道(現JR城端線)の設立などをおこない、1904年には北海道の開拓を志して、政界も引退して岩内郡小沢村(現共和町)移住し、現地で亡くなった。

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<大矢四郎兵衛像>

場所:鷹栖神明宮(富山県砺波市鷹栖1054)

竣工: 1960年8月再建(1938年8月建立のものは第二次世界大戦で金属供出)

像高:

作者: 米治一(堺幸山が鋳造)

撮影時: 2018年12月2日

説明:砺波地域の地方開発に活躍したためか、台座の題字は若槻礼次郎が揮毫、裏面の銘文は尾崎行雄が書き、金属供出されるも戦後立像が再建されるなど、地域に愛されている様子が窺い知れる像である。 

 

〇水野豊造 (1898~1968)

 富山県東礪波郡庄下村矢木(現砺波市矢木)生まれ。小作農家に生まれ、1918年の農閑期に植えた10球のチューリップがきれいに咲いたことから、砺波のチューリップ栽培が始まった。砺波のチューリップは、水田の裏作として(砺波地方は冬寒く、雪が積もることから冬の農閑期に農作業がしにくかった)広がり、「砺波のチューリップ」は世界的に有名になった。 

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<水野豊造像>

場所:富山県花卉球根農業協同組合富山県砺波市大門381)

竣工: 1970年

像高:

作者:

撮影時: 2018年12月2日

説明:砺波駅から東へと進んだ花卉球根農業協同組合の敷地内に建つ。道路わきなのですぐに見つかる。

 

〇片岡清一 (1911~1999)

 官僚、政治家。礪波郡苗加村(現砺波市苗加)生まれ。家は貧しかったが、周りの援助で東京帝国大学まで進学し、卒業後内務省に入省、1966年に砺波市長、1973年から衆議院議員(6期)、郵政大臣を務めた。 

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<片岡清一像>

場所:砺波市文化会館 (富山県砺波市花園町1-32)

竣工: 1995年10月

像高:

作者:

撮影時: 2018年12月2日

説明:撮影時、文化会館では催しがおこなわれていて子どもが多かったので、像の裏側にはまわれなかった。像の裏の松の木は雪囲いがされていたのも原因である。

 

〇岡田政宣(おかだまさのり) (1857~1928)

 教育者。幕末に加賀藩士和泉家の次男として生まれ、幼くして同藩士岡田家の養子となる。1883年に大成小学校(のちの大滝小学校)訓導となってから、大滝小学校校長を辞めるまで33年間この地区の教育に携わった。 

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<岡田政宣像>

場所:大滝公民館(トレーニングセンター)(富山県高岡市福岡町大滝849-1)

竣工: 1955年11月(2012年修復)

像高:

作者: 米治一

撮影時: 2018年12月2日

説明:大滝小学校は1968年に廃校となり、福岡小学校と統合になった。おそらく公民館が小学校の跡地であろう。像は最近修復された由。劣化して廃棄される像もある中、修復されるのは、氏が地域から愛されてきた故であろう。