銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

群馬県編 その15

新田義貞 (1301?~1338)

 鎌倉時代後期から南北朝時代の武士。清和源氏上野国新田郡(現太田氏)生まれ。生誕地は諸説がある。1333年一族の足利高氏鎌倉幕府に反旗を翻すと呼応し、本拠地上野国新田荘から鎌倉を目指し、苦戦の末鎌倉を争奪した。これにより鎌倉幕府は滅亡する。その後後醍醐天皇に従うが、尊氏(南北朝期からこの表記)との確執があり、尊氏が後醍醐天皇への反旗を翻しても続かず、後醍醐に従ったが、1338年越前国藤島において戦死した。f:id:tagutti:20200614213557j:plain

新田義貞像>

場所:新田荘歴史資料館(群馬県太田市世良田町3113-9)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2013年6月4日

説明:このポーズは、義貞が鎌倉を攻めあぐねた際に、稲村ケ崎から海の神へ黄金の太刀を投じた形である。同様のポーズの像が挙兵を決めた生品神社群馬県太田市新田市野井町1923)にある(下記写真)。こちらは2010年に盗難にあったことがあり、有名になった(現在は再建されている)。 

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高山彦九郎(1747~1793)

 江戸時代の尊王思想家。上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)生まれ。尊王思想を広めるべく、全国を遊説したが受け入れられず、筑後国久留米において自刃した。蒲生君平天皇陵の整備を幕府に献じた。また“前方後円墳”の用語の生みの親)・林子平(『海国兵談』などで海防を説いた)とともに「寛政の三奇人」と呼ばれる。 

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高山彦九郎像>

場所:高山彦九郎記念館(群馬県太田市細谷町1324-7))

竣工: 1998年

像高:

作者: 小野田勝

撮影時: 2013年6月4日

説明:生誕地に隣接した記念館の館内に立つ。高山彦九郎像は、京都三条大橋のたもとにいる、「土下座」像(実際は土下座ではなく、皇居(京都御所)に拝礼している姿)が有名。

 

 

新田義貞

 略 

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新田義貞像>

場所:東武太田駅北口(群馬県太田市東本町15)

竣工: 1988年5月

像高:

作者: 分部順治

撮影時: 2013年6月4日

説明:東武太田駅が改装される前は、ロータリーはロータリーでも、現在地ではなかった。また脇に仕える武将は、弟の「脇屋義助」と言われてきたが、どうもそうではないらしい…。 

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〇葉住利蔵(はすみりぞう) (1866~1926)

 実業家、政治家。上野国太田(現群馬県太田市)生まれ。号は松堂。1898年に新田銀行(現群馬銀行)を設立、薮塚石材軌道(現東部桐生線)を開くなど活躍し、県会議員から衆議院議員を2期務めた。晩年は金山図書館を立てるなど、郷土の振興に尽くした。 

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<葉住利蔵像>

場所:旧金山図書館(群馬県太田市本町27-9)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2013年6月4日

説明:旧金山図書館の敷地左奥に立つ。

 

〇中島知久平 

 略 

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 <中島知久平像>

場所:金山城址(群馬県太田市金山町40-98)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2013年6月4日

説明:大変よく遺構が残っているし、整備もされている中世城址金山城の南曲輪に立つ。金山城は1469年に新田一族の岩松家純が築城した。像の地までは徒歩で上がるしかないが、20分見当だった気がする。この地に像が立つのは、出身の太田市領域を見下ろすことができるからではないか?

 

〇小池生行 (?~?)

 不明。

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<小池生行像>

場所:金山城址(群馬県太田市金山町40-98)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2013年6月4日

説明:確か、金山城址の新田神社の近くの参道沿いにいる。石像。