銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

徳島県編 その4

喜田貞吉 (1871~⑲39)

 歴史学者東京帝国大学卒業。徳島県那賀郡櫛淵村(現小松島市)生まれ。文部省で小学校の教科書を編纂するが、南北朝期に南朝北朝を併記したため、休職処分となった(南北朝正閏問題)。法隆寺再建・非再建問題では、再建論の立場だったほか、日本民族の形成史について歴史学・考古学の立場から多くの仮説を提示した。

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喜田貞吉像>

場所:櫛淵八幡神社徳島県小松島市櫛淵町太田32)

竣工: 1999年10月

像高:

作者: 大杉直

撮影時: 2014年1月5日

説明:「日本の銅像探偵団」に積極的に登校されている林久治氏のブログによると、この像は京都の中西氏が小松島市に寄贈したもので、氏の父が喜田氏に師事していたことから、喜田氏の郷里に偉業を顕彰するために作ったのだそうです。WIKIなどに載る喜田氏の写真よりも像のひげが長いことが気になっていたのですが、本来喜田氏が郷里に帰るときはいつもひげを短くされていたようです。しかし、像は中西氏の父のイメージで作られたようで、ひげが長いのだそうです。

 

 

〇石丸米蔵 (1889~1959)

 教育者。小松島市初代教育委員長。徳島県小松島市立江生まれ。徳島県師範学校卒業後、教員として立江小学校に奉職し、校長となる。ほかにも俳句和歌や剣道にも精通し、保護司や文化財専門委員など、地域の教育のために尽力した。

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<石丸米蔵像>

場所:小松島市立立江小学校・幼稚園(徳島県小松島市立江町松本34-3)

竣工: 1959年7月

像高:

作者:

撮影時: 2014年1月5日

説明:亡くなってすぐに胸像が立てられているので、人望のある人だったんだな、と思いました。校門を入ってすぐ左にいますが、右側には二宮金次郎像もいます。 

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源義経 (1159~1189)

 平安末期の武士。鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝の異母弟。仮名は九郎、幼名は牛若丸。幼くして奥州藤原氏の庇護を受けていたが、兄の頼朝の挙兵を知り馳せ参じ、一の谷・屋島壇ノ浦の戦いで活躍した。その後兄と不和になり、奥州に逃げ戻ったが、1189年衣川で討ち死にした。

 

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源義経像>

場所:王子神社八幡神社)(徳島県小松島市芝生町宮ノ前43)

竣工: 1991年7月

像高: 6.7m

作者: 石黒孫七

撮影時: 2014年1月5日

説明:この地は「旗山」といって、1185年屋島の戦いのとき、平氏を挟み撃ちするために源義経たちが小松島に上陸し、源氏の白旗を挙げて軍議を行い、士気を高めたという故事の地。この像は日本最大の騎馬像だそうで、山もふもとからも見える大きさ。 

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〇庄野祐吉 (1876~?)

 政治家、実業家。徳島県小松島町江田村(現小松島市)生まれ。町議会議員、県自動車協会会長、消防協会副会長、県公安委員会長を歴任した。

 

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<庄野祐吉像>

場所:東八幡神社<千代の松原>(徳島県小松島市中田町千代が原40-2)

竣工:1957年3月

像高:

作者:

撮影時: 2014年1月5日

説明:像が立った段階では氏は存命で、いわゆる「寿像」である。神社参道の入り口付近、鳥居の右脇にいる。

 

 

〇前田秋政 (?~?)

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<前田秋政像>

場所:徳島ダイハツモータース本店脇(徳島県徳島市論田町本浦下84)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2014年1月5日

説明:おそらく徳島ダイハツモータースの社長だった人だろう。