〇お弓・お鶴
人形浄瑠璃「傾城阿波鳴門」(近松半二ほか合作)の登場人物。物語は十段あったが、現在は八段目の「巡礼歌の段」だけが主に上演されている。お弓は主人公、阿波十郎兵衛の妻。お鶴はお弓の子だが、訳あって別れて暮らしている。ある日、そのお鶴が巡礼の姿でお弓の前に現れるが、ある事情から母と名乗れない。お弓は家からお鶴を追い立てますが、今生の別れに耐え切れず、お鶴の後を追っていく。お話はこの後、十郎兵衛が誤って我が子お鶴を殺めてしまうのでした。まだ話は続きますが、このあたりで止めておきます。
<お弓・お鶴像>
竣工: 1954年
像高:
作者:
撮影時: 2014年1月5日
説明:阿波十郎兵衛屋敷は、「傾城阿波鳴門」の題材となった徳島藩のお家騒動の犠牲となり、処刑された板東十郎兵衛の屋敷跡に建てられた阿波人形浄瑠璃の拠点。邸内では「傾城阿波鳴門」が上演され、人形浄瑠璃の人形が展示されるなど、普及活動がおこなわれている。ただし、銅像は浄瑠璃ではなく、これを歌舞伎にした際の人物をモデルに作られている。
なお、舞台となった大阪の「どんどろ大師」善福寺(大阪府大阪市天王寺区空堀町10-19)にも、お鶴とお弓が同寺で出会った場面を銅像にしている(2009年11月)。
〇関寛斎 (1830~1912)
幕末から明治期の蘭方医。上総国山辺郡東中村(現千葉県東金市)生まれ。幼くして母と死別後、関家の養子となる。長じて佐倉順天堂に入り蘭医学を学ぶ。銚子で開業後、濱口梧陵の支援で長崎に遊学、その後徳島藩蜂須賀家の典医となった。戊辰戦争では官軍に付き添って東北へ向かい、敵味方なく治療をした。その後徳島で開業し、庶民への診療、種痘の奉仕などから、、「関大明神」と呼ばれた。1902年、突然北海道に渡り、陸別町の開拓事業を試み、「関牧場」を拓くが、1912年服毒自殺を遂げた。
<関寛斎像>
竣工: 1997年4月
像高:
作者: 橋本省
撮影時: 2014年1月5日
説明:石像である。石像ゆえにあまり出来は良くない(とあるFBでは「スフィンクス」呼ばわりされている)が、大変偉い先生だったようだ。徳冨蘆花と交流があり、著書『みみずのたはこと』には1章が設けられ、司馬遼太郎は『胡蝶の夢』では松本良順とともに主人公の一人となっている。
出身の東金(東金中央公園)や陸別町(陸別志駅前多目的広場)には銅像が立つ。
〇小溝茂橘(こみぞもきつ) (1873~?)
教育者。福岡県生まれ。徳島高等工業学校の初代校長。
<小溝茂橘像>
場所:徳島大学三島キャンパス(付属図書館前)(徳島県徳島市南常三島町2-1)
竣工: 1958年11月(元は1932年10月)
像高:
作者: 板東文夫
撮影時: 2014年1月6日
説明:金属供出で一度失われ、1958年に創設25周年事業で復活した。1973年の50周年記念事業で、現在地の記念庭園内に移設された。
〇蜂須賀家政 (1558~1639)
戦国期から江戸初期の武将、大名。尾張国丹羽郡宮後村(現愛知県江南市)生まれ。蜂須賀正勝(小六)の子。織田信長、のちに豊臣秀吉に仕え、父ともに四国攻めで武功を挙げた。秀吉は阿波国を父に与えようとしたが、父は秀吉の側近として使える道を選んだため、家政が阿波国を賜った。一説には、徳島城の完成時に「城の完成祝いに自由に踊れ」と命じたことから始まったとされる。
<蜂須賀家政像>
竣工: 1965年1月
像高: 約2m
作者:
撮影時: 2014年1月6日
説明:戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝像(父)があったが、戦争中の金属供出で撤去された。下記はその像の写真である。
(Wikipediaより転載)
〇鳥居龍蔵 (1870~1953)
人類学者、考古学者、民俗学者、民族学者。徳島県徳島市生まれ。尋常小学校卒業に、自学して東アジア各地をフィールドワークし、特に満州・蒙古地域はライフワークとなった。最初の表記の通り、学際的研究で業績を上げたが、学歴もなく在野の研究者であった(研究で博士号をとり、一時東京帝国大学助教授)。鳥居人類学研究所を創設し、1939年からは中国燕京大学に招聘された。鳴門市に「鳥居記念博物館」があったが、施設の老朽化により閉館、文化の森総合公園(徳島市に「徳島県立鳥居龍蔵記念博物館」が2010年開館した。
<鳥居龍蔵像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2014年1月6日
説明:記念碑中央のレリーフ像である。場所は蜂須賀家政像と同じ徳島中央公園(徳島城址)だが、市立徳島城博物館を過ぎて、徳島城表御殿庭園の池の近くの崖面に立つ。なおこの地で、「城山貝塚」の発掘をしたらしい。
〇阿部五郎 (1904~1963)
政治家。徳島市生まれ。戦前の労働運動から弁護士となり、日本社会党に入党。戦後公選による初代徳島県知事。その後衆議院議員(5期)。任期中に病死した。
<阿部五郎像>
竣工: 1965年10月
像高:
作者:
撮影時: 2014年1月7日
説明:新町橋通りと新町のアーケードとの交差点の中央分離帯のところに眉山をバックに立つ。脇には郵便ポストの上で阿波踊りを踊る銅像がある。