〇松中信彦 (1973~)
元プロ野球選手(内野手、外野手)。左投左打。熊本県八代市出身。八代第一高校(現秀学館高校)から新日鐵君津を経て、1996年のドラフト会議で、逆指名制度で福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)に2位で指名され入団した。平成唯一の三冠王で、プロ通算352本塁打、NPB史上初の3年連続120打点(2003~2005)達成者。
<松中信彦像>
場所:松中信彦スポーツミュージアム(熊本県八代市日置町4459-1)
竣工: 2009年1月?(ミュージアムの完成がこの時期なのでそれに合わせてできたと思われます)
像高:
作者:
撮影時:2018年2月3日
説明:ミュージアムの入り口(建物内)にいます。松中選手の中学時代の打撃フォームを再現したものだそうです。施設は松中選手が出身の「八代市の恩返ししたい」ということで作って八代市に寄贈したものだそうです。九州新幹線の新八代駅間近にあります。
〇森田次男 (?)
おそらく社会福祉法人八代高田福祉会の創設者。
<森田次男像>
場所:高田東部保育園(熊本県八代市豊原上町2920-2-4)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2018年2月3日
説明:富山県高岡市の銅像製作所である、四津井工房の納入実績から見つけたところ。保育園の入り口すぐ左にいる。
〇丸目長恵(まるめながよし) (1540~1629)
江戸初期の兵法家。肥後国八代郡八代(現熊本県八代市)生まれ。タイ捨て流兵法の流祖。通称は「蔵人佐(くらんどのすけ)」。1555年に薩摩兵が大畑(熊本県人吉市大畑町)に攻め込んだ時、父と共に撃退し、「丸目」姓を与えられた。上泉信綱の元で新陰流を学び、四天王の一人にまでなった。その後相良家に仕えた。墓は晩年を過ごした熊本県球磨郡錦町にある。
<丸目長恵像>
竣工: 2003年1月?(道の駅のできた時です)
像高:
作者: 石原昌一
撮影時:2018年2月3日
説明:正式には、道の駅に併設する「錦くらんど公園」にいる。前には胴着をつけた少年剣士が立ち合っていて、それを蔵人佐が見ている感じとなっている。この地は近年まで、少年剣道大会がおこなわれていたようで、そんな様子が反映されている。
〇佐藤正次 (1899~1961)
畜産家。球磨畜産農業協同組合の組合長。熊本県阿蘇郡小国町生まれ。和牛(褐牛)の改良に尽力した。
<佐藤正次像>
場所:球磨畜産農業協同組合(熊本県球磨郡錦町大字一武1546)
竣工: 1962年12月
像高:
作者:
撮影時:2018年2月3日
説明:組合の建物の入り口右手にいる。
〇高嶋愛之(たかしまちかゆき) (?)
最後の人吉町長で、初代人吉市長。石像と共に立つ説明版によると、人吉西小学校の鳥が丘台地への移転を推進した。
<高嶋愛之像>
※近くの「人吉特別地域気象観測所」の住所
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2018年2月3日
説明:石像である。陣地跡の道路の反対側が人吉西小学校で、坂道を上がった正面が、人吉特別地域気象観測所である。
〇犬童球溪(いんどうきゅうけい) (1879~1943)
詩人、作詞家、教育者。熊本県球磨郡藍田村(現人吉市)生まれ。本名は「犬童信蔵」。球磨川の溪谷で生まれたことから「球溪」と名乗る。新潟高等女学校赴任中に訳した「旅愁」、「故郷の廃屋」が有名。生涯250曲ほどの西洋歌曲の翻訳を手掛けた。
<犬童球溪像>
竣工: 1993年3月
像高:
作者:
撮影時:2018年2月3日
説明:図書館と市役所の間に立つ。
〇永田正義 (1911~1995)
政治家。熊本県人吉市生まれ。朝日新聞記者、ベトナム協会理事などを経て、1967年から人吉市長5期。
<永田正義像>
竣工: 2002年12月
像高:
作者:
撮影時:2018年2月3日
説明:犬童球溪像を並んで立つ。
〇千代 (1668~1746)
江戸時代の女性。孝女として有名。父が病気がちで、母やその祖父母と暮らしていたが、母は千代が9歳の時に亡くなり、祖父母も歳をとり、千代が働くしかなかった。祖父を畑に連れてゆき、祖母を寺に連れて行くなど、祖父母孝行をしていたが、ある日悪い噂が立つ。それは祖父母よりも先に布団に入り寝てしまっているというものだった。ある者がうわさを確かめるべく千代の家を伺うと、実は千代が祖父母のために布団を温めているのだった。この噂が熊本城下へと伝わり、細川侯が確認を命じた。家臣が家をこっそり伺うと、祖父母が黄色い飯(粟飯)、千代が白い飯を食べていた。家臣が踏み込み千代を詰問すると、白い飯はじつは「おから」だった。以降、細川侯から褒美の米をもらい、それで更なる孝行ができたらしい。
<孝女千代像>
場所:肥薩オレンジ鉄道津奈木駅前(住所)
竣工: 2003年
像高:
作者: 岩野亮介
撮影時:2018年2月3日
説明:津奈木町は「緑と彫刻のある町」をキャッチフレーズとしており、この像もその一環。駅舎の真ん前に立つ。馬を曳く姿は、祖父を喜ばすために馬を買い、薩摩街道を家路に急ぐ姿だそうだ。
〇徳冨蘇峰 (1863~1957)
明治~昭和期のジャーナリスト、思想家、歴史家。肥後国上益城郡杉堂村(現熊本県上益城郡益城町)生まれ。徳冨家は代々肥後国葦北郡水俣の惣庄屋兼代官を務めていた。したがって幼少期は水俣で過ごした。本名は「徳冨猪一郎」。父が横井小楠の弟子で、二人の妻が姉妹関係だった。キリスト教の洗礼を受け、同支社英学校に入学するも卒業直前に退学、自由民権運動に参加した。その後故郷に「大江義塾」を創設、いわゆる「平民主義」を主張するようになる。1887年に「国民之友」を創刊する。日露戦争後の三国干渉から国権論・国家主義に変わっていった。弟は作家の徳冨蘆花である。
<徳冨蘇峰像>
竣工: 1980年11月
像高:
作者: 稲田勇
撮影時:2018年2月3日
説明:晩年の姿の像である。Wikipediaに載るように、蘇峰は全国に5つの記念館を持つ。水俣のほかに、熊本県上益城郡益城町に生誕地(蘇峰生誕の家記念館旧矢島家)、熊本市の「大江義塾」跡(徳冨記念園)、東京都大田区(山王草堂記念館)、神奈川県二宮町(蘇峰晩年の秘書、塩崎彦一の旧宅)、山梨県山中湖(蘇峰の別荘跡。山中湖文学の森公園徳冨蘇峰館)。このうち、大田区と二宮町には銅像を見つけている。