先週は所属する部活がインターハイの県予選出場のため、応援に行っていたのでアップできませんでした(残念ながら県ベスト8で敗退でした) 。
〇園田直 (1916~1984)
陸軍軍人、政治家。熊本県天草郡一町田村(現天草市)生まれ。太平洋戦争に召集され、陸軍へ。戦後一町田村助役、町長を経て、1947年から衆議院議員(15期)。厚生大臣(水俣病を認定)、内閣官房長官(日中平和友好条約を調印)、外務大臣を歴任。
<園田直像>
場所:河浦総合運動場(熊本県天草市河浦町白木河内175-21)
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2018年2月3日
説明:運動公園の入り口付近にいる。像は本人にあまり似てない気がする。
このとき、水俣から出水市を通り、長島からフェリーで天草下島に渡ったのだが、車でフェリーに乗る機会が少なかったため、けっこうドキドキした記憶がある。運動公園の隣には、「天草コレジオ館」。天草は信仰の島なので、キリスト教関係の施設が多くある。
〇鈴木重成 (1588~1653)
江戸初期の幕臣、天草代官。三河(現愛知県)生まれ。徳川家康に仕え、関ケ原の戦い、大坂の役に従軍。1620年に家督を継ぎ、1637年からの島原・天草一揆(島原の乱)で戦功を上げ、天草代官になった。戦後の荒廃からの復興に尽力し、移民政策や年貢の半減などをおこなう(半減の実現は息子の重辰のとき)。天草氏に鈴木神社があり、名代官として慕われている。
<鈴木重成像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:おそらく石像である。これ以外に銅像は、兄の正三と一緒に富岡城址(本丸跡。富岡ビジターセンター脇)に立っている。(下写真)
〇鈴木正三(すずきしょうさん) (1579~1655)
安土桃山期から江戸初期の曹洞宗の僧侶、仮名草子作家。もともとは幕府の旗本。俗名の諱は「まさみつ」。三河国加茂郡足助庄(現愛知県豊田市足助町)に生まれる。長男だったが、家督は弟の重成が継ぎ、別の一家を興している。関ケ原の戦い、大坂の役で軍功を上げ、旗本となるが、1619年ににわかに出家した。天草代官となった弟の重成の要請で、天草地域での布教活動に従事し、天草諸寺院の復興、『破切支丹』でキリスト教議の批判などをおこなった。
<鈴木正三像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:天草市の本渡に宿をとり、目覚めると雪。聞くところによると、東シナ海に直接面している天草は、熊本県でも雪の割合の多いところだそうだ。以前も経験したのだが、ナビに頼ると人っ子一人いない道を示すことがあり、高野山に向かう時に雪の積もる林道に誘導され難儀した。今回も「まさか」と思っていたら、本渡から富岡に向かう途中から山道に誘導され、1台も轍の跡がないうっすら雪の積もる道をソロソロと走る羽目になった。富岡城址も砂州の上に立つ岡の上なので、横なぐりの雪の中で写真を撮る羽目となった。
鈴木正三像は、出身の愛知県豊田市則定町にある「鈴木正三史跡公園」にも、重成とともに立っている。
〇勝海舟 (1823~1899)
幕末の幕臣、明治期の政治家。江戸本所亀沢町生まれ。旗本小普請組に生まれたが、直心陰流剣術の免許皆伝にして、蘭学を学び、安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に学ぶ。1860年には咸臨丸で渡米し、帰国後軍艦奉行並となり、神戸海軍操練所を開設した。戊辰戦争時に幕府軍の軍事総裁として、江戸城無血開城を成し遂げた。明治維新後は、参議・海軍卿、枢密顧問官を歴任した。
<勝海舟像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:なんで富岡の地に勝海舟像があるかというと、1856年長崎海軍伝習所の訓練で、観光丸で富岡に来航し、宿泊した鎮道寺に落書したり、翌年も来航したりしているためらしい。
〇頼山陽 (1781~1832)
江戸後期の歴史家、思想家、漢詩人。名は襄(のぼる)。『日本外史』は幕末の尊王攘夷運動に影響を与えるなど、ベストセラーだったらしい。広島藩に仕え、儒学者菅茶山の廉塾の塾頭となるが、京都へ出奔し、京都で開塾した。
<頼山陽像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:1818年に九州に来遊した際、富岡城下の渋江龍淵を訪ね、「泊天草洋」の漢詩を詠んでいるところから。
〇天草四郎時貞 (1621?~1638)
江戸初期のキリシタン、島原・天草一揆の一揆軍の指導者とされる。詳細は後述。
<天草四郎時貞像>
竣工: 1982年5月
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:鬼池港は、島原半島の口之津へと向かうフェリーの発着地。時貞像は原城址の方を向いている。台座が高くて、撮りにくかった。
〇長岡興就 (1816~1869)
名は五郎左衛門。天草の御領組の大庄屋。その頃の天草は日照りや病虫害が多発す一方、幕領として年貢が重いなど、領民の暮らしは悲惨であった。そこで1845年江戸に出て、老中阿部正弘に駕籠訴をした。その結果「天草百姓相続方仕法」が出され、農民は救われたという。一方彼は長崎に囚われるが、勘定奉行の判決は「乱心によるもの」として、闕所を申し渡され、この地に蟄居した。
<長岡興就像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:「上訴」と書かれた書状を掲げ、正座する像はめったにない。顔も切羽詰まった感じで、よくできていると思う。
〇鈴木重辰(すずきしげとき) (1607~1670)
江戸前期の幕臣。鈴木正三の子。父が出家後、弟の重成の養子となった。父の後の天草に赴任し、2代目天草代官となる。地道に天草復興に尽力し、父が実現できなかった天草の年貢半減を実現した。天草市にある鈴木神社(天草市本町本681)には、父の重成、実父の正三とともに祭神として祀られている。
<鈴木重辰像>
竣工: 2007年11月
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:ここでは、父の重成、実父の正三と並んで「鈴木三公像」として立っている。とあるブログによると、天草の人々の浄財により建設が進んでいたが、公費を使うことや公的場所であることから、建設にクレームがつくなどしたそうだ。地方では有力者が絡むと、みんなの想いとは違うことも起こるようだ…。
〇栃光正之 (1933~1977)
大相撲力士。熊本県牛深市深海町(現天草市)生まれ。春日野部屋に属し、最高位は東大関。一度も「待った」をしないまじめさで、力士の亀鑑と称された。本名は中村有雄。
<栃光正之像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:台座には、本人の手形付きのサインが貼り付けられ、隣には「力石」が台座に載っている。諏訪神社を崇敬し、近くの広場で地方巡業をおこなったそうである。
なお、菊池郡大津町下町343の「松田自動車整備工場」脇には、同じ熊本の生んだ名力士「不知火光右衛門の墓」があり、その脇には大きな張りぼての光右衛門像と銅像がある(行っていない)。
〇平山邦雄 (1925~?)
実業家。政治家。熊本県天草郡枦宇土町<はじうとまち>(現天草市)生まれ。埋め立て事業をおこない、天草上島と下島を結ぶ天草瀬戸大橋を架け、天草興産を創設した。
<平山邦雄像>
場所:天草瀬戸大橋上島側右手(熊本県天草市瀬戸町74※近くの三菱ふそうトラック・バス㈱天草支店住所)
竣工: 1981年10月
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:像ができた段階では生きてらっしゃったようで、「寿像」とある。
〇田代由紀男 (1916~1997)
政治家。自民党の参議院議員(3期)。熊本県天草郡河浦町(現天草市)生まれ。満鉄に入社、戦後一町田町長を経て、熊本県議(7期)。県議会議長となる。
<田代由紀男像>
竣工: 1995年12月
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:「勲二等瑞宝章」を受章した際の寿像。天草の農協の発展に寄与したとして、JA直営のこの地に像が立てられたらしい。