熊本民謡の代表格。曲自体は、全国の花柳界で歌われていた戯れ歌だったが、熊本で土地の言葉の歌詞となり(永田イネが作った)、当初「熊本甚句」と呼ばれたものが、歌いだしの言葉から「おてもやん」となった。「やん」は「〇〇さん」の「さん」にあたる言葉。
<おてもやん像>
竣工: 1985年
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:「おてもやんあんたこの頃嫁入りしたでないかいな~」で始まる。「おてもやん」は、「富永チモ」という実在のモデルがいるらしい。彼女と知り合いであった永田イネが、1935年に作詞・作曲・振付をしたという。この像は、設立当初は、熊本交通センターにあったが、2015年8月に現在地に移設された。
〇永田イネ (1865~1938)
芸妓、三味線・小唄の師匠、芸人。熊本県熊本市生まれ。実家は「麹屋」という、熊本藩御用達の味噌醤油製造業で、母の希望で芸道に入ったという。18歳の時に、師匠の名を継いで「亀甲屋嵐亀之助」を名乗り、一座を率いて全国興行をしていた。後年、熊本で三味線・小唄の師匠をした。
<永田イネ像>
竣工: 2007年
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:この像は、「永田イネとおてもやん像を建てる募金」によって作られた。向かって右側の、坐って三味線を弾いてるのが永田イネである。弟子の指導は厳しかったそうだが、像にはそんな様子が見て取れる。
〇加藤清正
略
<加藤清正像>
竣工: 1979年3月
像高:
作者: 高藤鎮夫
撮影時:2018年2月4日
説明:名古屋の妙行寺や名古屋能楽堂にある像と瓜二つの像(同じ作者)で、桔梗紋の具足、蛇の目紋の桶側胴、陣羽織、長烏帽子の姿で采配を持つ。
〇林市蔵 (1867~1952)
内務官僚、銀行家。肥後国熊本生まれ。東京帝国大学をでて、内務官僚として活躍、三重県知事、山口県知事、大阪府知事を歴任した。その間東洋拓殖株式会社理事なども務め、退官後は、日本信託銀行頭取、九州電気会長などをも務めた。大阪府知事時代には、民生委員の形を整えたりした。
<林市蔵像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2018年2月4日
説明:西日本新聞の記事によると、2019年5月に建て替えられたとあるが、写真を比較すると、銅像を磨き直してきれいにし、台座の文を作り直して、向かって右に「隣人愛」の碑文を新設した模様。
〇谷干城 (1837~1911)
武士、陸軍軍人、政治家。土佐国高岡郡窪川(現高知県高岡郡四万十町)生まれ。当初尊王攘夷論者だったが、坂本龍馬や後藤象二郎と交わるうちに、開国・倒幕論者となった。廃藩置県後に陸軍少将となり、熊本鎮台司令長官となった。1877年の西南戦争の折には、鎮台のあった熊本城を死守し、政府の勝利に貢献した。1885年に内閣制度が発足すると、農商務大臣として入閣。井上馨外相の条約改正問題では、反対の立場を取り、条約改正は失敗に終わる。その後貴族院議員として活躍した。
<谷干城像>
竣工: 1969年(1937年に西南戦争60年で立てられた像は、金属供出されたが、同じ鋳型で再興された)
像高:
作者: 朝倉文夫
撮影時: 2018年2月4日
説明:熊本城内の天守閣南側にあったが、2008年の熊本城本丸御殿の復元により、高橋公園に移設された。
〇維新をめぐる群像
いずれも横井小楠と関係の深い面々を並べたもの。
<維新をめぐる群像>
竣工: 2000年4月
像高:
作者:石原昌一
撮影時:
説明:作られたのは、横井小楠、坂本龍馬、勝海舟、松平慶永(春嶽)、細川護久(1839~1893:熊本藩の最後の藩主)の5名で、台座には竹崎律次郎(1812~1877:教育者)、内藤泰吉(1828~1911:医者)、嘉悦氏房(1834~1908:実業家)、徳冨一敬(1822~1914:官僚、教育者。徳冨蘇峰・蘆花の父)、長野 濬平(1823~1897:実業家)山田武甫(1832~1893:政治家・養蚕家)のレリーフ像(いずれも小楠の高弟)が並べられている。
(センターの横井小楠)
(竹崎律次郎) (内藤泰吉)
(嘉悦氏房) (徳冨一敬)
(長野 濬平) (山田武甫)