今回から岩手県編が始まります。訪れたのは2020年9月。コロナ禍のほとぼりがちょっと緩んだ頃です。例によって訪れた順番なので、若干地域のまとまりを欠きます。悪しからず!
なお、岩手県の銅像探索に関しては、Twitterの「岩手県の銅像を探してる赤べこ」さんのところが大変参考になりました。この方はどちらかというと彫刻系の人で、題材よりも彫刻家などのほうに興味があるようですが、通常では見つけられないような”ジモティ”な銅像が多く挙げられています。
〇新渡戸稲造 (1862~1933)
教育者、思想家、国際連盟の事務次長。陸奥国岩手郡盛岡城下(現岩手県盛岡市)生まれ。盛岡藩の藩主用人の家に生まれた。幼名は稲之助。札幌農学校へ入学し、キリスト教へ入信(内村鑑三は同期)する。卒業後アメリカへ留学、妻となるメアリー・エルキントンと出会う。札幌農学校助教授となり、ドイツへ留学時に農業経済学で博士号を得る。帰国後農学校教授となり、『武士道』を書きあげた。後藤新平に請われて台湾における糖業発展の基礎を築く(台湾糖業博物館には新渡戸の胸像があるという)。帰国後京都帝国大学教授、東京帝国大学教授、第一高校校長などを歴任した。1920年に国際連盟が発足すると事務次長に選ばれた。1984年には5000円札となった(2007年発行停止)。
<新渡戸稲造像>
竣工: 2012年10月
像高:
作者: 許文龍
撮影時:2020年9月19日
説明:盛岡市内は新渡戸稲造の銅像が多く、盛岡中央高校附属中学校(盛岡市みたけ4-26:下記写真)や市役所脇の与の字橋、生誕地、盛岡市先人記念館(この3つは後述)とある。花巻市にも新渡戸稲造記念館があり、そこにも銅像がある(これも後述)。また新渡戸家の出身地である青森県十和田市に新渡戸記念館(青森県十和田市東三番町24-1)、勉学にいそしんだ北海道大学農学部(札幌農学校の後進)、多磨霊園の墓所(東京都府中市多磨町4丁目:7区1種5側11番)、新渡戸文化学園(中野区本町6-38-1)にも銅像がある。
(下は多磨霊園のもの)
〇柳村兼吉 (?~?)
政治家。昭和戦後期の滝沢村村長。岩手山麓の開墾に尽力し、滝沢地域の耕地拡大を成し遂げた人らしい。
<柳村兼吉像>
竣工: 1968年7月(現在地には1972年10月移設か?)
像高:
作者: 吉川保正
撮影時:2020年9月19日
説明:国道4号線と国道282号線が分岐するところにある(信号名は「分かれ」)。4号線沿いだが、木々が茂って全く見えない。分岐を282号線側に行き、最初の信号を右折し、すぐ左に折れて(おそらくこの道は国道の旧道。しばらく行くと行きどまりとなる)パチンコ屋の先の右側の丘の上に銅像が見えてくる。
〇石川啄木 (1886~1912)
歌人、詩人。本名石川一。岩手県南岩手郡日戸村(現盛岡市日戸)生まれ。生まれた翌年に父が渋民村の宝徳寺住職となり、一家が渋民村に移住した。盛岡尋常中学校(盛岡中学校)に入学し、金田一京助などと知り合い、文学の志を抱き、短歌の投稿などをする。一方で学校での素行が悪く、中学を退学する。その後上京し、雑誌「明星」に投稿、やがて啄木のペンネームで注目を集め始める。困窮のなか、函館や盛岡などを転々としながら、短歌、詩、小説などを発表する。小樽、札幌、釧路を転々とした後、再び上京、東京で結核で死去した。
<石川啄木像>
竣工: 1996年
像高:
作者: 中村晋也
撮影時:2020年9月19日
説明:記念館は1970年に開館。像は啄木がこの地で代用教員をしていた時の姿を模したもの。前庭にある(無料で入ることができる)。敷地からは岩手山が真正面に見えた。
〇園井恵子 (1913~1945)
女優。岩手県岩手郡松尾村(現岩手県八幡平市)生まれ。本名袴田トミ。小樽高等女学校を中退し、宝塚音楽歌劇学校に入学、当初芸名は「笠縫清乃」だったが、すぐに「園井恵子」と改めた。宝塚歌劇団では名バイプレイヤーとして名をはせた。その後舞台女優へと転身、宝塚を退団する。しかし太平洋戦争が激化し、通常の公演ができない中、属していた「苦楽座」の丸山定夫から新しい劇団(「さくら隊」)での地方慰問を持ち掛けられ、1945年広島を訪れた。8月6日広島への原爆が投下され被爆し、8月21日に亡くなった。
<園井恵子像>
場所:岩手県働く婦人の家(岩手県岩手郡岩手町大字川口第12地割10)
竣工: 1996年8月
像高:
作者: 加藤豊
撮影時:2020年9月19日
説明:国道4号線から外れて県道157号線を進み、しばらくして左側に立つ。丸山定夫の劇団が広島で被爆したことは知っていたが、当たり前だが団員がいて同じように被爆したのだ。銅像を見るとわかるが、きれいな人だったんですね。
〇田中館愛橘(たなかだてあいきつ) (1856~1952)
地球物理学者。東京帝国大学名誉教授。陸奥国二戸郡福岡(現岩手県二戸市)生まれ。南部藩の武士の家柄。曾祖母は相馬大作の姉だった。維新後上京し、慶應義塾、東京開成学校を経て、東京大学理学本科へ入学、物理学を学んだ。その後東京帝国大学教授となり、地震研究、地磁気の測定から航空力学へと研究を進めた。また日本でのメートル法やローマ字の普及に努めるなど活躍した。
<田中館愛橘像>
場所:二戸市シビックセンター(岩手県二戸市石切所荷渡6-2)
竣工: 2016年5月
像高:
作者: 田中史郎
撮影時:2020年9月19日
説明:象が両手を広げている意味がよくわからなかった(ネット上で見れる写真にそうしたものはない)。調べている最中に、近くの福岡中学校(岩手県二戸市福岡下川又2-1)の校門右側に愛橘胸像があることを見つけてしまった…。
〇相馬大作 (1789~1822)
南部藩の浪人。本名下斗米秀之進将真(まさざね)。父は南部藩士。15歳で上京して武道を学び、帰郷後、福岡(現二戸市)に兵聖閣という道場を開き、兵法と砲術を指南する。江戸当初から対立していた南部藩と津軽藩の問題で、1808年に津軽藩の家格が上がったが、大作はこれを不正のなせる業と憤激し、1821年津軽寧親の参勤交代帰郷を狙って襲撃を企てたが、情報が漏洩して失敗に終わった(相馬大作事件)。大作は江戸に隠れるも翌年捕えられ処刑された。その後江戸から「赤穂事件の再来」と騒ぎ立てられ、一躍有名となった。
<相馬大作像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2020年9月19日
説明:石像である。大変分かりにくいところにある。とりあえず四戸城(金田一城)址を目指して国道4号線を左折するが(盛岡方面から来た場合)、いわて銀河鉄道の踏切を渡って最初の角を左折し、しばらく行くと右側に小さく「相馬大作演武館跡地」の看板があるので、その路地を右折する。畑の中を上がっていくと右に曲がる農道が見えるので(道がまっすぐ山のほうに進む道)、それを上がっていくと広場があり、その奥に像が立つ。像の周りや車を止めた辺りで、大きな栗の実をたくさん拾った。
〇三船久蔵 (1883~1965)
柔道家。岩手県九戸郡久慈町(現岩手県久慈市)生まれ。仙台二中で柔道に出会い、旧制第二高校(現東北大学)に通い詰める。1903年に上京して講道館に入門、早稲田予科、慶応大学理財科に入学する。球車、大車、踵返などの新技を発明したが、その最たるものが隅落(別名空気投)。その後多くの学校で後進の指導にあたった。
<三船久蔵像>
場所:三船十段記念館(岩手県久慈市川貫第5地割20-230)
竣工:
像高:
作者: 阿部正基
撮影時:2020年9月19日
説明:記念館内にも胸像(五辻勉作)があるが、時間の関係で入ることができなかった。