〇久世丑次郎 (1889~?)
農政家。九戸酪農農業組合を創設、組合長として貢献した。
<久世丑次郎像>
竣工: 1971年10月
像高:
作者: 「TERUO」の銘がある。
撮影時:2020年9月19日
説明:農協の駐車場の奥に三河源三郎とともにいる。
〇三河源三郎 (1916~?)
農政家。岩手県久慈市生まれ。農業に人生をかけ、陸中農業組合組合長、九戸致富酪農振興協会で頑張った。
<三河源三郎像>
竣工: 1989年11月
像高:
作者: 立体写真㈱(盛岡公彦)
撮影時:2020年9月19日
説明:農協の駐車場の奥に久世丑三郎とともにいる。
〇山内堯文 (1915~?)
官僚、政治家。戦後公選初の久慈町長、その後久慈市長(6期:31年)。
<山内堯文像>
場所:諏訪公園(すわ緑地:井分店久慈市長内町第42地割)
竣工: 1997年7月
像高:
作者: 「謹製東條会館」と書かれている。この会社は、東京の麹町にある写真撮影が本職の会社。その一環に写真を基にした彫像製作(ステレオ写真彫像)があるようだ。
撮影時:2020年9月19日
説明:東日本大震災の記憶も新しいが、三陸地区は何回も津波に襲われた場所である。銅像の立つ「諏訪公園(すわ緑地)」は、バカでかい防波堤の向こう側(港沿いで海に面している)にあり、東日本大震災の津波で皆持っていかれたところらしい。像は「寿像」と書かれているので、1997年当時山内氏はまだご存命であったようだ。
〇岩城惣一郎 (1917~?)
官僚、政治家。岩手県九戸郡長内村(現久慈市)生まれ。戦後公選初の長内村村長となり、その後同町長を歴任し、1955年から県議会議員、久慈市農業協同組合理事などを務めた。
<岩城惣一郎像>
竣工: 1991年7月
像高:
作者:
撮影時:2020年9月19日
説明:レリーフ像である。海岸沿いの斜面を登った諏訪神社の境内にある顕彰碑。
〇野田の牛方
この辺りは江戸時代から製塩を生業としており、「野田の塩」として有名だった。出来上がった塩は、鉄などと共に牛の背に積まれて北上川流域や沢内・鹿角方面(奥羽山脈に分け入った岩手県の最西部から鹿角は秋田県)まで行商していたという。一人の牛方が7頭のコティ(3才以上の雄牛)を使っていたそうだ。
<野田の牛方像>
場所:道の駅のだ(岩手県九戸郡野田村野田第31地割31-1)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2020年9月19日
説明:「道の駅のだ」は、三陸鉄道リアス線の陸中野田駅の真ん前にある。
〇島川直英 (1889~)
弁護士、漁業家。岩手県九戸郡野田村生まれ。1896年の三陸大津波で家族全員を失ったが、その後東京帝国大学を出て官僚や弁護士をする。1936年からこの地で鮭の人工孵化事業に取り組み、戦後下安家漁協を設立、人工孵化に成功し、県内の鮭水揚げ5万トンを誇るまでに育てた。
<島川直英像>
場所:国民宿舎えぼし荘(岩手県九戸郡野田村玉川第2地割62-28)の奥(下安家緑地と呼ぶらしい)
竣工: 1990年1月
像高:
作者: 立体写真(盛岡公彦)
撮影時:2020年9月19日
説明:この人工養殖場は、東日本大震災や2016年の台風10号でも壊滅的な被害を受けたようです。像は孵化場を見下ろせる高台に立っているんですね。
〇三閉伊一揆の像
三閉伊一揆は、1847年と1863年に起こった南部藩の百姓一揆。江戸後期列強が日本沿岸に接近すると、幕府は南部藩に根室と箱館の守りを固めるように命令。藩財政が逼迫する中で凶作が続き、まず1847年に南部三閉伊一揆が起こった。牛方であった佐々木弥五兵衛が全藩一揆を指導し、1万人余りが遠野に集まり、御用金の全廃を要求した。藩は書房者の弥五兵衛を捕縛し、斬殺した。1853年47年の一揆が沈静したとみた藩主は再び悪政を始め(増税や御用金など)、畠山太助をリーダーに、仙台藩に越訴して解決を目指した。藩は農民のほとんどの要求を認めた。
※佐々木弥五兵衛(1787?~1848):陸奥国下閉伊郡岩泉村生まれ。牛方をしながら藩内各地を回り、「百姓は天下の民」と言って、藩の悪政に対する訴願を説いた。「小本の祖父」と呼ばれて慕われた。1847年の一揆の後で捕縛され、斬首された。
※畠山太助(多助)(1816~1874):陸奥国下閉伊郡田野畑村生まれ。弥五兵衛の思想に触れ、1847年の一揆に参加した。その後1863年の一揆を指導し、一応の成功に導いたが、明治維新後の検地に対して、不当な動きありと盛岡に連行され、取り調べ中に自殺をした。
<三閉伊一揆像>
場所:田野畑村民俗資料館(岩手県下閉伊郡田野畑村田野畑128-9)
竣工: 1971年5月
像高:
作者:吉川保正
撮影時:2020年9月19日
説明:資料館の奥の庭に立つ。彫刻家の吉川保正(きっかわやすまさ)は、1893年下閉伊郡重茂村(現宮古市)生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)を卒業後、中国の美術学校の教授を経て、帰国後は岩手県商工館(現岩手県工業技術センター)金工部長となり、東北地方の美の発掘者として活躍した。1984年に亡くなった。写真は完全に逆光です。向かって右で座っているのが弥五兵衛。左側の立っているのが太助です。