銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

神奈川県編  その1

今回から、地元神奈川県編を開始します。他県と違って、一度にたくさん回ってハンティングできているわけでなく、写真の整理を怠っている結果、大変まとめにくくなっていますが、努力してみます。たぶん、何回も追加編が出るのではないかと💦

 

〇フランソワ・レオンス・ヴェルニー (1837~1908)

 フランスの技術者。フランス王国の生まれ。1865~76年にかけて横須賀造兵廠、横須賀造船所、観音埼などの灯台、その他近代施設の建設を指導した。

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<フランソワ・レオンス・ヴェルニー像>

場所:ヴェルニー公園(神奈川県横須賀市汐入町1-1)

竣工:1922年9月に作られたものは戦時中に金属供出、その後元像をかたどったセ

メント像を置いていたが、1952年9月に改鋳。

像高:

作者: 内藤春治(1922年作は朝倉文夫

撮影時:2021年9月19日

説明:胸像の立っているヴェルニー公園は、1946年に「臨海公園」として開園し、2001年にフランス式庭園の様式を取り入れて「ヴェルニー公園」となった。園内には、「ヴェルニー記念館」(ヴェルニーの功績とストームハンマーの展示)、「旧ティボディエ邸」(横須賀製鉄所副所長だった、ジュール・セザール・ティボディエの官舎を移築したもの)などがあり、対岸にアメリカ海軍横須賀基地が見える(敷地内には、日本最古のドライドックである1号ドックも見える)。

元像は1922年の朝倉文夫作。横須賀海軍工廠の創立50周年記念を機に、横須賀市で胸像の建設運動が起こり、1922年9月に除幕式がおこなわれた。その後戦争の金属供出で失われたが、横須賀市は市役所前広場に、コンクリート像を代替えに据えていた。1952年にその像を基に内藤春治が改鋳して臨海公園(現ヴェルニー公園)に設置、2000年に園内で現在地へ移された。

 

小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ) (1827~1868)

 幕末の幕臣、旗本。江戸生まれ。勘定奉行江戸町奉行外国奉行を歴任。日米修好通商条約の批准のため渡米。帰国後は幕府の財政再建、洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などをおこなった。大政奉還に反対し、薩長への主戦論を唱えたため罷免され、領地である上野国群馬郡権田村(現群馬県高崎市倉渕村権田)へ隠遁した。しかし戊辰戦争時に捕縛され、同地で斬首された。

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小栗上野介忠順像>

場所:ヴェルニー公園(神奈川県横須賀市汐入町1-1)

竣工: 1922年9月に作られたものは戦時中に金属供出、その後元像をかたどった

   セメント像を置いていたが、1952年9月に改鋳。

像高:

作者: 内藤春治(1922年作は朝倉文夫

撮影時:2021年9月19日

説明:像の建設からの歴史は、ヴェルニー像のところに明記した。小栗像の台座に書かれた日付は、上記朝倉像の設立日。なお、もとのコンクリート像は、小栗の墓所がある東善寺に移設された(群馬県高崎市倉渕町権田169※群馬県編参照)。また横須賀市自然・人文博物館前庭(神奈川県横須賀市深田台95)にも小栗像がある(朝倉文夫作)。

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東郷平八郎 (1842~1934)

 海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。薩摩国鹿児島郡加治屋町(現鹿児島県鹿児島市加治屋町)生まれ。明治時代の日本海軍の指揮官として、日清・日露戦争の勝利に貢献し、日本の国際的地位を引き上げることに貢献した。特に日露戦争日本海海戦において、ロシアのバルチック艦隊に対しておこなった、敵前回頭戦法(丁字戦法=トーゴ―ターン)が有名。

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東郷平八郎像>

場所:三笠公園(神奈川県横須賀市稲岡町82)

竣工:1967年5月

像高:

作者:清水多嘉示

撮影時:2005年12月27日

説明:像のある三笠公園には、記念館「三笠」が係留されているが、これは日本海海戦時の旗艦であり、東郷が乗船していた。公園に入ると、正面に像が建ち、その背景に「三笠」が入るので、絶好の撮影ポイントとなる。最新の像を撮りに出かけたら、コロナ禍で「三笠公園」自体が立ち入り禁止だった。現在は錆防止の塗装が施されている。

東郷は死後神格化され(本人はこれを嫌がっていた、東京渋谷区と福岡県福津市に「東郷神社」が建立された。またここ以外にも多くの銅像が立てられた(埼玉県飯能市の東郷公園<埼玉県飯能市坂石552-1>。長崎県佐世保市の東公園<長崎県佐世保市東山町182-1>。鹿児島県鹿児島市の多賀公園<鹿児島県鹿児島市清水町>など)。

 

〇山梨勝之進 (1877~1967)

 海軍軍人。宮城県宮城郡仙台生まれ。海軍兵学校卒。ワシントンやロンドンの海軍軍縮会議を主導し、その妥結に尽力した。引退後、平成の上皇の教育係として学習院院長となり、戦後は海上自衛隊の創設に尽力した。太平洋戦争後、GHQ支配下で「キャバレー・トーゴ―」が開かれたり、後部主砲部に「水族館」が設置されたりしたが、「三笠」の復元運動の中で、中心的役割で推進した。

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<山梨勝之進像>

場所:記念館「三笠」(神奈川県横須賀市稲岡町82-19)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2011年11月13日

説明:「三笠」は艦全体が博物館・記念館となっており、山梨像は艦内の砲台に脇に置かれている。山梨像は、海上自衛隊幹部学校にもある(山名常人作)。

 

〇ベントン・ウィーバー・デッカー (1899~1983)

 アメリカ海軍の大佐。アメリカ海軍横須賀基地第4代司令官(1946~1950)。それまで横須賀基地の存続について、米軍内では否定的意見が多かった中、デッカーは存続を訴え(朝鮮戦争の勃発でその先見性は証明された)、さらに横須賀市内の病院(聖ヨゼフ病院)や学校(栄光学園や清泉女学校、横須賀学院)の設立を促進し、日本に民主主義を定着させようと尽力した。

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<ベントン・ウィーバー・デッカー像>

場所:平和中央公園(神奈川県横須賀市深田台19)

竣工:1949年 11月

像高:

作者: 川村吾蔵

撮影時:2021年9月19日

説明:1949年に市役所前公園に設置され、1995年10月に現在地に移築された。

 

〇栗本鋤雲 (1822~1897)

 幕臣、外交官、思想家、ジャーナリスト。江戸神田生まれ。名は鯤。通称は瀬兵衛。幕臣としては、外国奉行勘定奉行箱館奉行を歴任、大政奉還から王政復古の大号令の時は、徳川昭武随行して、フランス万博に出かけていた。明治維新後は新政府に出仕せず、「横浜毎日新聞」を経て「郵便報知新聞」で主筆を務めた。

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<栗本鋤雲像>

場所:横須賀市自然・人文博物館前庭(神奈川県横須賀市深田台95)

竣工:1985年

像高:

作者: 山口駿河守の養子と言われている(東善寺HP“http://tozenzi.cside.com/mikurazima.html”より)

撮影時:2021年9月19日

説明:この像は、海軍の元建築局長の吉田直が、横須賀製鉄所の建設に現場責任者として才覚を示した栗本鋤雲の功績を、小栗忠順と共に顕彰すべしと、私費で銅像の作成を発案し、横須賀市に設置を働きかけるも理解を得られず、群馬県倉渕村(現群馬県高崎市倉渕町)の東善寺の小栗像脇に設置することが決まる。しかし、その直前に吉田が急死し、原像の石膏像は御蔵島にある(御蔵島では、白ん爺と呼ぶとか)。これを石膏取り師の牛越雅夫がセメント像にし、1956年に東善寺に設置した。それを横須賀市の横山和夫市長が顕彰することを決意し、東善寺の像を銅像で複製し、現在地に設置した。

東善寺のHPは、小栗忠順についても詳細が載っている。