銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

神奈川県編 その8

2022年 新年あけましておめでとうございます。今年もヨレヨレながら、銅像ブログを続けたいと思います。宜しくお願い致します。

では、今年の第1弾を…

 

〇渡辺幸雄 (?~?)

 港南農業協同組合専務理事。港南台の開発を意図し、日本住宅公団による開発を勧めた中心人物。

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<渡辺幸雄像>

場所:イオンフードスタイル港南台(神奈川県港南区港南台3-1-2)

竣工:1984年5月

像高:

作者:

撮影時: 2008年4月13日

説明:港南台駅の北側の「イオンフードスタイル港南台店(かつてはダイエーだった)」の入り口の左側にさりげなく立っている。1964年当時の港南台は、「南区のチベット」(当時港南区はなかった)と言われ、農林業中心の地域だったらしい。住所も「港南台」ではなく、「日野町」の一画だった(今も、野庭の奥に農業専用地域がある)。銅像の顕彰碑の文面を見ると、1984年段階で渡辺氏は亡くなっている可能性が高い。

 

〇川又貞次郎 (?~?)

 実業家。相模鉄道の初代社長。愛知県の出身。東京の繊維問屋に丁稚奉公し頭角を現すと、繊維業の販売で活躍し、その後東京急行電鉄に入社、戦後東急から分社した「神中鉄道」を引き受けた。ターミナルであった横浜駅西口の開発を手掛けた。

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<川又貞次郎像>

場所:相鉄ジョイナス屋上庭園(神奈川県横浜市西区南幸1-5-1)

竣工:

像高:

作者:立体写真像(株)

撮影時:2021年12月18日

説明:屋上庭園だが、一番北側のエレベーターホールにいる。銅像の脇には、「広場には泉があります。広場には風が吹きます。広場からは言葉が生まれます。」という詩のような銘板がはめ込まれている。

 

〇十河伊兵衛(そごういへい) (1804~1882)

 デパートの「そごう」の創設者。大和国十市郡十市村(現奈良県橿原市)生まれ。長じて大坂で古着屋の「大和屋」を開業した。明治期に、古着から呉服屋へと転換し、心斎橋筋に進出すると「十合呉服店」と改称し、神戸店を開業し「神戸そごう」として、百貨店となった。20世紀後半になると、他の百貨店同様に多店舗展開をしたが、2000年に経営破綻し、ミレニアムリテイリングが買収、さらに現在はセブン&アイ・ホールディングの傘下に入り、「横浜そごう」のみが営業をしている。

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<十河伊兵衛像>

場所:横浜そごう屋上太陽の広場(住所)

竣工:2005年9月

像高:

作者:署名が「敏明?」と見えるが誰でしょう?

撮影時:2020年7月13日

説明:もともとは、本店であったそごう心斎橋店に設置されていたが、閉店のため2009年に神戸そごうに移設、さらにそこが閉店したため、2017年11月に横浜そごうに移設された。自分は神戸そごうに撮影に行ったのだが、すでに神戸そごうの閉店が決まっていたため、横浜に移設された後で、めぐりめぐってようやく昨年撮影をした。昔の百貨店の屋上は、小さな遊園地となっており賑やかであったが、前出のヨコハマジョイナス屋上庭園(横浜高島屋の屋上でもある)同様に、少し植栽のされた静かな広場となっている。

 

岩瀬忠震(いわせただなり) (1818~1861)

 武士、幕臣。旗本設楽貞丈の子として、江戸芝愛宕下西久保に生まれる。1840年に旗本岩瀬家の婿養子となり、岩瀬家の家督を継ぐ。昌平坂学問所に優秀な成績で合格し、のちに教授となる。老中阿部正浩に見出され、蕃書調所や長崎海軍伝習所の開設に尽力、外国奉行にまで出世し、日露和親条約の調印に臨んだ。ハリスと日米修好通商条約の調印にも尽力した開国派の幕臣であった(安政の五カ国条約すべてに立ち会ったのは、忠震のみ)。一橋派に属したため、井伊直弼大老就任で左遷され、失意のまま病死した。

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岩瀬忠震像>

場所:本覚寺(神奈川県横浜市神奈川区高島台1-2)

竣工:1982年

像高:

作者:

撮影時:2021年12月18日

説明:レリーフ像である。この地は開国時に、アメリカ領事館となったところ。領事館になったときに、西洋塗装法(ペンキ:本覚寺のHPより)に塗られたが、これは純日本建築がペンキで塗られた最初とのこと(山門や鐘楼に跡が残っているそう)。その縁で、境内には「全国塗装業者組合合同慰霊碑」が立っている。

 

〇藤野善輔  (1849?~1923)

 実業家、薬種貿易商。おそらく関東大震災で死亡したもよう。「謡曲家」との表記もあり、銅像の下の銘文にも「能」の字があるので、仕事を引退後「能」の世界に入り、相当の技量に達したものと思われる。

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<藤野善輔像>

場所:本覚寺(神奈川県横浜市神奈川区高島台1-2)

竣工:1922年11月

像高:

作者:唐杉誠一

撮影時:2021年12月18日

説明:山門をくぐって左手の墓地の入り口近くに坐っている。「寿像」とあるので、1922年段階ではまだご存命であったようだ(銘板の文に「年七十三近有」とあるので、生年は1849年頃か?)。

 

〇内山岩太郎 (1890~1971)

 外交官、政治家。群馬県前橋市生まれ。外務省に入省、各国の公使館勤務を経て、アルゼンチン公使となる。戦後神奈川県知事となり、5期20年務める。県立近代美術館(鎌倉)、県立図書館、音楽堂の開館を実現させた。

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<内山岩太郎像>

場所:神奈川県私学会館(神奈川県横浜市神奈川区高島台7-5)

竣工:1975年

像高:3.3m(8.6mは台座を含む)

作者:

撮影時:2010年6月3日

説明:県内の私立学校教育の復興に尽力したことから立てられた。現在、この像はない。2011年の東日本大震災後に近隣の住民から、倒壊の懸念の声が高まったため、2012年に撤去、現在は私学会館内に胸像が置かれている(未撮影)。なお、伊勢原市の大山阿夫里神社下社にも、同氏の像がある。

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〇齋藤芳次郎 (1839?~1906)

 「赤帽子三楽」「乞食の大将」と呼ばれた、横浜で貧民救済事業に尽力した人物。江戸浅草田原町の生まれ。幼いころは無頼漢で、背中や両腕に入れ墨が彫ってあった。いろいろな職業を転々とした後、髪結い職人となった。のちに三楽と名乗り、横浜居留地界隈で放浪していた。ある日、界隈に多くいた物乞いを見て、貧民救助を思い立ち、「赤帽子三楽」として活動、貧民にさまざまな仕事を請け負わせた。横浜久保山に「慈善堂」を建てた。

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<齋藤芳次郎像>

場所:新善光寺(神奈川県横浜市南区三春台133)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2017年5月27日

説明:三楽は自ら銅像を立てることを夢見たが、寄付が集まらずに、石像が建てられた。