銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

神奈川県編  その9

今回は、前回までの落穂ひろいのようになっています。前回までに回ったところで、古い写真が見つからなかったところを再取材した結果です。

 

〇馬淵曜(まぶちあきら) (1874~1959)

 実業家、篤志家、教育者。鳥取県東伯郡古布庄村(現琴浦町)生まれ。1909年に横須賀で馬淵組(土木建築請負業)を設立する。一方事業で得た資産を社会事業や教育事業に注ぎ、横須賀夜間学校(現県立横須賀高校定時制)や馬淵聾唖学校(現横須賀市立ろう学校)を開校する。

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<馬淵曜像>

場所:横須賀市立ろう学校(神奈川県横須賀市森崎5-13-1)

竣工: 1934年12月(とあるが、現在のものは石像なので、この時のものは戦争中

   に金属供出をされたものと思われる)

像高:

作者:

撮影時:2022年1月9日

説明:ろう学校の敷地内に銅像があるなんて気がつかなかった。この像は台座の文章から、1929年の大典(昭和天皇即位の礼)の時に「馬淵聾唖学校」を作り、像は氏の還暦の記念に作られた寿像であることがわかる。隣には、妻の「馬淵和子像」(こちらは1953年2月に亡くなられた後の造像か?武田五一作と思われる)がある。

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〇ウィリアム・アダムズ(三浦按針) (1564~1620)

 航海士、水先案内人、貿易家。イングランド人(ケント州ジリンガム生まれ)。1598年に極東に行くというリーフデ号(正確には当初はこの船団の旗艦、ホーペ号に乗っていた)に乗り、1600年日本の豊後国臼杵に漂着。徳川家康に会い、同僚のオランダ人、ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(これが本名)らと日本に残った。その後は西洋式の船舶を作り、相模国三浦郡逸見に領地をもらい、「三浦按針」の名を与えられた。しかし家康の死後、2代徳川秀忠の代になると、貿易の縮小が幕府の方針となり、不遇のうち肥前国平戸で亡くなった。

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<ウィリアム・アダムズ像>

場所:横須賀市自然・人文博物館(神奈川県横須賀市深田台95)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2022年1月9日

説明:「神奈川県編その1」で、博物館の前庭の「小栗上野介」「栗本鋤雲」像に言及したが、館内はコロナ禍の関係で入館できなかった。今回入館し、館内の像を紹介する。この像はおそらく粘土像(ガラス越しのため確認できず)。他にモデルとなった像が見当たらないため、横須賀で作られたものと思われる。以前は、単体で展示されていたが、今回見学をすると、ヴェルニー公園の「小栗上野介」「ヴェルニー」像のコピー(これも粘土像か?)と並べられていた。

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〇フランソワ・レオンス・ヴェルニー (1837~1908)

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<フランソワ・レオンス・ヴェルニー像>

場所:観音埼灯台灯台資料展示室内(神奈川県横須賀市鴨居 4-1187)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2013年1月7日

説明:ヴェルニー公園の像とは違う像なので、掲載しておきます。観音埼灯台の初代は、1869年につくられた日本最古の西洋式灯台。レンガ造りだったために、関東大震災で倒壊し、現在のものは3代目。

 

秋山真之(あきやまさねゆき) (1868~1918)

 海軍軍人。愛媛県松山市生まれ。兄は秋山好古東京帝国大学で学ぶために、上京し大学予備門に入るが、学費の問題から進路を改め、海軍兵学校に入学、首席で卒業した。1904年からの日露戦争においては、東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、旗艦「三笠」に乗船、日本海海戦の勝利に貢献した。

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秋山真之像>

場所:記念館「三笠」(神奈川県横須賀市稲岡町82-19)

竣工:

像高:

作者:原型はリナルディ(海上自衛隊幹部学校内にあるもの複製と思われる)

撮影時:2021年1月9日

説明:2011年に「三笠」には乗船し、山梨勝之進像を撮ってきたのだが、その頃は目的像以外に目もくれなかったようで、今回10年ぶりに乗船すると、中甲板の「中央展示室」には、多くの像が展示されていたのには驚いた。

 

伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう) (1875~1946)

 皇族、海軍軍人。伏見宮貞愛親王の第一王子として生まれ(庶子)、愛賢王(なるたかおう)と名乗る。その後華頂宮家を継いで、博恭王となる。1923年に伏見宮家を継いだ。海軍兵学校に入り、海軍軍人となり、日露戦争では「三笠」に乗った。1913年に横須賀鎮守府隊司令官になる。その後海軍軍令部長、元帥となった。

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伏見宮博恭王像>

場所:記念館「三笠」(神奈川県横須賀市稲岡町82-19)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2022年1月9日

説明:秋山像と同様に、三笠艦内の中央展示室にある立像。モデル像があったはずだが、ネット上では見つからなかった。

これ以外に、「三笠」の艦内には、東郷平八郎像が2体あるので、紹介しておく。胸像は、京都にあった「西川伸鋼工業」のあったものだという(1942年頃に発見とのことなので、それよりも古い造像と思われる)。

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〇平沼亮三 (1879~1959)

 実業家、政治家、アマチュアスポーツ選手。神奈川県横浜市生まれ。慶応義塾大学野球部で活躍し、東京六大学野球連盟会長となる。その他のスポーツにも関わり、日本体操連盟初代会長、日本陸上競技連盟初代理事長・会長、ロサンゼルス及びベルリンオリンピックでは日本選手団団長を務めた。神奈川県議会議員衆議院議員貴族院議員を歴任し、公職追放後は横浜市長にもなった。

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<平沼亮三像>

場所:三ツ沢公園(神奈川県横浜市神奈川区三ッ沢西町3-1)

竣工:1962年10月

像高:

作者:宮脇?

撮影時:2022年1月4日

説明:この像は、1955年の第10回国民体育大会神奈川県大会の炬火の最終ランナーとして、炬火台に点火した姿なのだという。このとき平沼氏は76歳。翌年の新年の歌会で昭和天皇が歌を贈られているくらいなので、銅像になっているのだろう。公園入り口にある「平沼亮三記念体育館」の入り口を入ったところに、「平沼亮三記念品展示室」があり、そこには胸像がある。

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