日頃の整理整頓サボりが祟って、訪れて撮っているはずの写真が見つからない状態です。追加のロケハンをしておりますが、なんか場所がメチャクチャでもうしわけありません。
〇山田太郎(『ドカベン』より) (当初のマンガの設定では1958~)
1972年から始まる水島新司のマンガ・アニメの『ドカベン』の主人公(『少年チャンピオン』)。神奈川県にあるとされる明訓高校野球部を舞台に、チームメイトの岩城正美、殿馬一人、里中智(後述)などとライバルたちとの高校野球を描いた。その後『大甲子園』『ドカベンプロ野球編』など続編が次々と描かれていった。太郎のポジションはキャッチャー。
<山田太郎像>
場所:大和スタジアム(大和引地台球場)(神奈川県大和市柳橋4-5000 引地台公園内)
竣工:1996年3月
像高:
作者:クレアーレ熱海ゆがわら工房 (製作会社)
撮影時:2009年12月6日
説明:大和スタジアムはこのドカベン像があることから、「ドカベンスタジアム」の愛称がついている。同様の像は、新潟県新潟市の古町商店街(古町5番街)にもある(こちらは、岩城・殿馬像や『野球狂の詩』の水原勇気・岩田鉄五郎像、『あぶさん』の景浦安武像も)。
〇里中智(さとなかさとる)(『ドカベン』より) (当初のマンガの設定では1958~)
上記のマンガ『ドカベン』の明訓高校のエースピッチャー。アンダースローのフォームから七色の変化球を操る。作者の水島新司が敬愛する先輩マンガ家、里中満智子から命名した。
<里中智像>
場所:大和スタジアム(大和引地台球場)(神奈川県大和市柳橋4-5000 引地台公園内)
竣工:1996年3月
像高:
作者:クレアーレ熱海ゆがわら工房 (製作会社)
撮影時:2009年12月6日
説明:前述の通り、同様の像が新潟市にあるのは、作者の水島新司が新潟市の出身だから。故に『ドカベン』たちの学校名の「明訓高校」は、当時弱小だった「新潟明訓高校」から取っている(その後甲子園の常連校になったが…)。しかし設定が神奈川県の高校、であったことと、1996年に大和引地台球場の改修をした際に、水島新司からアドバイスを受けたことから、この球場に山田・里中像が作られた。
(新潟古町5番街のもの。山田太郎像は新潟が、里生智像は大和が、出来がいいと思うのは私だけだろうか?)
〇庵政三(いおりまさぞう) (1901~1971)
医者。神奈川県三浦郡浦賀町(現横須賀市)生まれ。陸軍軍医となり、戦後国立相模原病院(現国立病院機構相模原病院)に勤めた。その後座間町入谷に病院を開業し、外しい人からは金をとらずに、どんな病気や怪我でも診療をした。
<庵政三像>
場所:座間市立市民健康センター(神奈川県座間市緑が丘1-1-3)
竣工:1972年4月
像高:
作者:
撮影時:2016年7月2日
説明:像は、座間町民(当時)の寄付により、作られたという。当初は座間市文化福祉会館に設置されたが、2014年に現在地に移設された。
〇一遍 (1239~1289)
鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。一遍智真。伊予国久米郡(現愛媛県松山市)生まれ。ここの豪族河野通広の第2子として生まれた。その後実家が没落し、各地で修業後、念仏札を配り布教を始めるが、1279年に信濃国伴野荘を訪れた際から、「踊念仏」を始める。全国を遊行して布教を続けていたが、摂津国兵庫津で亡くなった。
<一遍像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2009年12月6日
説明:この像は、無量光寺の本尊である一遍像(木造)のブロンズ像で、1893年に焼けた旧本堂の跡地に立っている。
〇吉田茂 (1878~1967)
外交官、政治家。高知県宿毛郡出身の竹内綱の五男として、東京神田駿河台に生まれた。1881年に旧福井藩士の吉田健三の養子となる。幼少期に大磯で育ち、東京帝国大学法科を卒業後、外務省に入省し、奉天総領事、外務次官を歴任する。1946年に日本自由党総裁として首相となる。日本国憲法の発布に尽力、第2次、第3次内閣時にサンフランシスコ平和条約を調印し、国際社会への復帰を果たす。
<吉田茂像>
場所:旧吉田茂邸(神奈川県中郡大磯町西小磯418)
竣工:1983年9月
像高:2.4m
作者:
撮影時:2006年3月21日
説明:亡くなる前日も、この邸宅から富士山を日がな一日眺めていたという。海岸べりの吹きさらしのところに立つ(サンフランシスコ方面を見ているとも)。1983年に大磯の観光協会が中心となってこの像が建てられたという。このときは西武鉄道がこの旧吉田邸を持っていたが、2009年に放火により焼失、2017年に大磯町が整備・再建し、県立公園となった。東京の北の丸公園にも銅像があるが、こちらは舟越保武の作像。
〇鈴木梅四郎 (1862~1940)
実業家、政治家、社会運動家。信濃国美内郡安茂里村(現長野県長野市)生まれ。号は呑天。慶應義塾卒業後、時事新報から横浜貿易商組合顧問となり、機関誌を書く。その後三井銀行に入行、さらに王子製紙で専務となる。このときに日本の医療制度の貧弱さを知り、東京・横浜・大阪に医療所を作る。1912年から立憲政友会の衆議院議員となった(当選5期)。
<鈴木梅四郎像>
場所:妙大寺(神奈川県中郡大磯町東小磯19)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2016年9月10日
説明:大磯に自宅があり、大磯の文化・教育・観光事業の振興を図った。像は梅四郎が自分の苦学の経験から、俸給の一部を積み立てて苦学生の学費を出していたことから、その恩恵を受けた教え子たちが作ったという。
〇徳冨蘇峰 (1863~1957)
ジャーナリスト、思想家、評論家。本名は猪一郎。弟は徳冨蘆花。肥後国上益城郡杉堂村(現熊本県上益城郡益城町)生まれ。徳冨家は代々水俣の惣庄屋、代官を兼ねた名家で、幼少期は水俣で育った。当初熊本で学ぶも、同志社英学校に入り、洗礼を受けた。自由民権運動期には、熊本に「大江義塾」を開いた。さらに上京すると、思想結社「民友社」を作り、『国民之友』を創刊し、「平民主義」を説いた。
<徳冨蘇峰像>
場所:徳冨蘇峰記念館(神奈川県中郡二宮町二宮605)
竣工:1941年
像高:
作者:川村吾蔵
撮影時:2016年9月10日
説明:館内に2体ある。この地は蘇峰の晩年の秘書であった塩崎彦市氏が、1969年に自宅内に作った施設(これ以外に、徳冨蘇峰の資料館は7つある)。
(こちらは1958年矢影勇作)