銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

神奈川県編  その12

〇江成久兵衛 (1817~1900)

 江戸末期から明治初めの商人、農政家。相模国高座郡田名村久所生まれ。江戸末期の田名地区は烏山藩下野国)の支配地だったが、相模川河岸段丘上にあるため、水が乏しかった。1858年に用水路の工事をしたが、台風で起きた洪水ですべてが無に帰した。そこで地元で水事業をしていた江成久兵衛が再度開発して、岩盤を穿ち、堤防を築いて、28年の歳月を経て成功し、田名地区に田んぼが広がった。

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<江成久兵衛像>

場所:相模川ふれあい科学館(神奈川県相模原市中央区水郷田名1-5-1)

竣工:2000年10月

像高:

作者:

撮影時:2009年12月6日

説明:像は、田名公民館の当時の副館長で、久兵衛の子孫の人が、当時の服装で像のモデルになったという。米俵の上に坐っている。

 

〇照手姫 

 伝説上の姫。上溝に住む横山将監の娘。敵方の武将小栗判官と恋仲になり、照手姫は小栗の元に走り、父の横山将監は,小栗によって滅ぼされたという。

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<照手姫像>

場所:ミウィ橋本7F(神奈川県相模原市緑区橋本3-28-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2016年7月2日

説明:ミウィ橋本の7F「杜のホールはしもと」入り口に立つ。照手姫は、相模原の上溝や下溝地区に伝説が残っているようで、墓は藤沢市清浄光寺遊行寺)の長生院にあるという(小栗判官の墓も)。小栗判官伝説は、遠く和歌山県の熊野地区にもあり(峰の湯温泉の「つぼ湯」)。さらに横浜市金沢区の六浦地区に話があるなど、全国的な話となっているようだ。

 

源義経 (1159~1189)

 平安末期の武士。清和源氏源義朝の九男。幼名は牛若丸。平治の乱で父が死に、奥州藤原氏に匿われるが、兄源頼朝の挙兵に馳せ参じ、平氏打倒の軍に入ると、摂津の一の谷、讃岐の屋島長門の壇ノ浦と活躍し、平家滅亡を成し遂げた。しかし、その後兄の頼朝と不仲となり、奥州藤原氏を頼って逃げるも、藤原泰衡に攻められて討ち死にした。

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源義経と弁慶像>

場所:白旗神社(神奈川県藤沢市藤沢2-4-7)

竣工:2019年10月

像高:

作者:奈部雅昭(竹中銅器)

撮影時:2022年1月30日

説明:この地は、奥州で亡くなった義経の首が埋葬された場所に近く、義経の霊を「白旗大明神」として白旗神社になったとされる。弁慶塚もこの近くにある。

 

〇渡辺光治 (~1942)

 海軍軍人。1942年2月の「クーパン」攻略戦で海軍特別陸戦隊として活躍し、戦死した。

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<渡辺光治像>

場所:宮之前公民館の前(神奈川県藤沢市鵠沼神明3-3-17)※宮之前公民館の住所

竣工:1942年か?

像高:

作者:

撮影時:2022年1月30日

説明:万福寺近くの墓所に立つ(宮之前公民館のほぼ向かい)。この辺りは、鵠沼地区の墓所が集められたところのようで、万福寺近くの通りの両サイドに墓地が続く。渡辺光治の墓は、道路の反対側の家の脇にひっそりと立つ。太平洋戦争当初の戦死は、銅像を立てるくらいの余裕があったようだ。銅像の顔が幼いところがつらい。

 

〇一遍  略

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<一遍像>

場所:清浄光寺遊行寺)(神奈川県藤沢市西富1-8-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2022年1月30日

説明:本堂の右側に立つ。『一遍上人絵伝』などに描かれる姿よりも優しげなお顔である。