銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

神奈川県編  その17

河野謙三 (1901~1983)

 昭和後期の政治家。神奈川県足柄下郡豊川村(現小田原市)生まれ。兄は河野一郎。旧制小田原中学校(現小田原高校)から早稲田大学に入り、箱根駅伝で活躍。戦後、公職追放を受けた兄に代わって衆議院議員となる。兄の公職追放が解除されると参議院に出て当選(5回)、1971年には参議院議長となる(~1977)。この間、日本体育協会会長、日本陸上競技連盟会長を歴任した。

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河野謙三像>

場所:小田原市城山陸上競技場管理棟(神奈川県小田原市城山2-29-1)

竣工: 1984年7月

像高:

作者:

撮影時:2022年3月4日

説明:小田原城の裏側にある城山の裏側にある陸上競技場の管理棟1Fにいる。

 

〇松永安左ヱ門 (1875~1971)

 明治末期から昭和期に活躍した実業家。長崎県壱岐島生まれ。父の「安左ヱ門」を引き継ぐ(3代目)。幼名は亀之助。長らく電力業界で活躍した。幼くして福沢諭吉の『学問のすすめ』に感動し、慶應義塾に入学するも父の死で一時帰島し、商売を引き継ぐも土地の管理以外を譲って、再び慶応に戻った。しかし卒業の1年前に中退して、日本銀行に入行したが、ここも1年で辞め、福澤桃介と事業を興すがうまくいかない。1909年に関わった福博電気軌道から、電力事業へのかかわりが生まれ、その後いくつかの電力会社を併合して、東邦電力を設立し副社長となった。さらに社長となり九州から近畿、中部を網羅する電力会社に成長させた。太平洋戦争時に国家総動員法の下で電力会社が併合され、日本発送電会社が設立されると引退し、茶道三昧の日々を送る。雅号は耳庵。戦後日本発送電会社の民営化に際し、九電力体制への実現に尽力した。さらに猛反対の中、電力の値上げを実施したため「電力の鬼」と呼ばれた。

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<松永安左ヱ門像>

場所:松永記念館(神奈川県小田原市板橋941-1)

竣工:

像高:

作者: 沢村吉光

撮影時:2022年3月4日

説明:松永記念館は、戦後、松永が住んだ老欅荘とその資料を展示する施設からなる。像はその資料館別館の入り口付近にある。本館の一段上がったところに老欅荘と無住庵(会社引退後に住んだ埼玉県所沢市にあった田舎家)がある。板橋の辺りは、昭和前期に別荘が多く建てられた。松永邸以外に、山縣有朋古稀庵、黒田長成の清閑亭など。

 

〇瓜生外吉 (1857~1937)

 明治期の海軍軍人。海軍大将。加賀国大聖寺藩に生まれる。1872年に海軍兵学寮に入り、アメリカに留学(アナポリス海軍兵学校へ)、帰国後さまざまな軍艦の艦長となり、日露戦争では第4戦隊司令官として仁川沖海戦に勝利した。戦後佐世保や横須賀の鎮守府長官を歴任し、男爵となり貴族院議員ともなった。

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<瓜生外吉像>

場所:山角天神社(神奈川県小田原市南町1-5-37)

竣工:1939年5月移設(1917年作で、当初は東京の瓜生邸にあったそうだ)

像高:

作者:北村西望

撮影時:2022年3月4日

説明:石像である。瓜生は、海軍退役になった1913年に義兄の益田孝(三井物産創始者)の勧めで、この地近くに別荘に移り住んだ。地元との交流も深く、天神社のすぐ西側の坂は、瓜生の援助で車の通れる坂になったため「瓜生坂」と呼ばれる。像も、地元の青年会の力で作られた。また妻のしげ(繁子)は、津田梅子などともに日本ではじめて留学をした女性の一人である。

 

伊藤博文 (1841~1909)

 幕末の武士、明治期の政治家。周防国熊毛郡束荷村(現山口県光市)生まれ。父が長州藩足軽の家、伊藤家に入ったため、博文も武士となった。吉田松陰松下村塾で学び、イギリスに留学した。第一次長州征伐後、高杉晋作の挙兵に参加し、藩主流派となる。明治維新後、参与、兵庫県知事、大倉少輔などを歴任、岩倉使節団にも参加した。明治14年の政変後にリーダーとなり、大日本帝国憲法の執筆などをする。1885年には初代の内閣総理大臣となった。1900年に立憲政友会を発足させると4回目の総理大臣となるが、貴族院の反対で短命に終わる。1905年に初代の韓国統監となり1909年にこれを恨む安重根によって射殺された。、

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伊藤博文像>

場所:滄浪閣旧蹟(神奈川県小田原市本町4-10)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2022年3月4日

説明:この地は、伊藤が1890年に建てた別邸で、父の隠居地として建て、明治憲法の完成とともに自身も永住をするつもりだったようだが、多忙となり民法典の原案を執筆した地でもある。1897年に妻の病気療養のこともあり、大磯へと移っていった(この地は金子堅太郎の持ち物となり、さらにリゾート旅館となったが、1902年の小田原大海嘯で大破した)。現在は私有地のようだが、伊藤の像(叩いてみたが銅像ではなくコンクリート像のようだ)と石碑が立っていて、入ることができる。

 

〇新名百刀(にいなもと) (1872~1942)

 女子教育者。岐阜県大垣市生まれ。旧制水野。上京後共立女子職業学校で編み物を、渡辺裁縫伝習所で手芸、裁縫を学んだ。新名友作に嫁ぐも、夫が病気となり、小田原に転地療養をするも1902年に亡くなる。そこで小田原裁縫編物伝習所を開設し、数年後に新名裁縫女学校となる。大正期には新名女学校となり、戦後新名学園旭丘高校となった。

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<新名百刀像>

場所:旭丘高等学校(神奈川県小田原市城内1-13)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2022年3月4日

説明:学校の校地にあるが、柵などなく道路から入ることができる。「保」の字が彫りこんであるが、作者はわからない。

 

二宮尊徳

 略

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二宮尊徳像>

場所:ミナカ小田原(神奈川県小田原市栄町1-1-15)

竣工: 2020年12月

像高:

作者:宇野務

撮影時:2022年3月4日

説明:映画「二宮金次郎」の公開に合わせ、作られた。ミナカ小田原の「金次郎広場」(3F)にある夫婦像である。作者は地元の彫刻家で、小田原高校の非常勤講師を長らく勤めた人らしい。