銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

鹿児島県編  その11

〇塗木春志 (1922~1993?)

 農政家。知覧町農業協同組合長から鹿児島県の農業協同組合中央会長。知覧町議会議員(2期)、町消防団団長などを歴任。鹿児島県川辺郡知覧町(現南九州市)生まれ。

<塗木春志像>

場所:JA南さつま本所(鹿児島県南九州市知覧町郡17285)

竣工:1993年6月

像高:

作者:喜多敏勝

撮影時:2020年3月22日

説明:碑文を読むと没年が書かれていないが、文の最後に「ご遺徳をしのぶ」(知覧町長)と書かれているので、像の立てられた「1993年」を没年?としておいた。多くの像の碑文と没年の関係を見ると、その前年までに亡くなっていることが多いので、1992年頃なのではないか?「1990」年に県農協中央会長なので、近年まで元気であったのだろう。「剣道八段」でもあったようだ。

 

〇特攻勇士の像 (正式名称は「とこしえに」)

 アジア・太平洋戦争の末期に編成された、大日本帝国陸軍航空隊の特攻部隊。1945年3月から始まる特攻作戦(250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりする)という自決戦。この作戦の死者1036名中、439名が知覧基地から出撃していた(他に万世、鹿屋<鹿児島>、都城、新田原<宮崎>、健軍<熊本>、大刀洗<福岡>などから出撃)。

<特攻勇士の像>

場所:知覧特攻平和館(鹿児島県南九州市知覧町郡17881)

竣工:1974年

像高:

作者:伊藤五百亀

撮影時:2020年3月22日

説明:上記のように何か所からも出撃したが、この知覧が一番多く出撃し、一番多くの死者が出た。知覧基地の脇にあった、富家食堂のおかみ鳥濱トメは、特攻隊員から「お母さん」と慕われ、心の支えとなった。1955年に「知覧平和観音堂」が建てられ、慰霊が始まると、戦死者の遺品などが集まり、「知覧特攻遺品館」が作られた。これが「知覧特攻平和館」の基である。現在は、戦死した1036人の遺影が飾られ、遺書・手紙・辞世などが展示されている。また1980年に甑島で引き上げられたゼロ戦、海軍の水上特攻艇「震洋」の復元したものなども展示されている。

 

〇折田兼至(おりたかねたか) (1858~1923)

 明治から大正期の政治家、実業家。薩摩国給黎郡知覧郷(現南九州市)生まれ。鹿児島県議会議員、県会議長などを経て、衆議院議員(4期)。引退以後は鹿児島県農工銀行頭取となり、さらに南薩鉄道、鹿児島紡績会社の重役を歴任した。

<折田兼至像>

場所:知覧役場前交差点(鹿児島県南九州市知覧町郡6204)

竣工:1963年11月

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:1929年に知覧村により、安藤照制作の全身像が立てられたが、1943年に金属供出で壊された。その後台座だけが残っていたが、1963年に知覧町役場の改築に併せて、胸像を再建した。銅像のある所は、1882年に折田の呼びかけで作られた「新聞縦覧所」(雑誌や新聞を置いて、みんなが自由に閲覧できる施設)を作ったところだという。

 

〇宮原直二  (1858~1938)

 林業家。政治家。知覧村村長。薩摩国給黎郡知覧村(現南九州市)生まれ。タバコや知覧茶の振興、植林など。一方で薩南工業高校の前身(村立工業徒弟学校)の創設や薩南中央鉄道の建設などをおこなった。

<宮原直二像>

場所:南九州市役所(鹿児島県南九州市知覧町郡6204)

竣工:1963年 6月

像高:

作者:永吉?

撮影時:2020年3月22日

説明:薩南工業高校のfacebookによると、学校の正門横にも宮原直二の胸像がある(1969年制作、作者は板橋一歩)。

(薩南工業facebookより。

https://www.facebook.com/SATUNANKOUGYOU/posts/2168070323282008/

〇杉木盛次 (?~?)

 実業家。鹿児島荷役海陸運輸㈱を創設(当時は鹿児島荷役㈱)。

<杉木盛次像>

場所:鹿児島荷役海陸運輸㈱本社(鹿児島県鹿児島市七ツ島1-79)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:産業道路沿いに会社があり、その建物の前に立つ。撮影時は雨だったため額が光っている。