銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

滋賀県編   その6

中江藤樹  略

中江藤樹像>

場所:日野小学校(滋賀県蒲生郡日野町大字大窪331)

竣工: 1978年

像高:

作者:

撮影時:2019年10月13日

説明:日野は、「日野商人」の町。江戸初期に「日野椀」を行商して全国に売り歩いたところから。通常小学校の像といえば、「二宮金次郎(尊徳)」なのだが、近江では「中江藤樹」となる。「高田徳左衛門」が寄贈している。下は「日野商人」の像(1973年)。



蒲生氏郷  (1556~1595)

 戦国から阿辻桃山期の武将。近江日野城主。のち伊勢松阪城主を経て、陸奥黒川城主(のちの会津若松城)。近江国蒲生郡生まれ。六角承禎の重臣蒲生賢秀の三男。幼名は鶴千代。六角氏が滅ぶと賢秀は鶴千代を織田信長に人質とし臣従。信長の次女と結婚し、元服して忠三郎賦秀(康秀)。のちに氏郷と改名。様々な合戦で武功を挙げた。信長の死後は、豊臣秀吉に従い、ここでも活躍する。この頃キリスト教の洗礼を受けた(洗礼名はレオン)。小田原征伐後東北に入り、伊達政宗を抑える。その後病死、蒲生家は子供たちも早世し断絶した。

蒲生氏郷像>

場所:ひばり野公園(滋賀県蒲生郡日野町大字上野田817)

竣工: 1988年4月

像高:

作者:山口栄太郎

撮影時:2019年10月13日

説明:1919年に作られた銅像は、1944年に金属供出されている。兜は、合戦で身につけていた「鯰尾兜」である。

 

〇堀井新治郎  (1856~1932)

 明治・大正期の発明家。謄写印刷資材器材製造の堀井謄写堂(のちホリイ株式会社。2002年倒産)を創設。近江国蒲生郡駕輿丁村(現滋賀県蒲生郡竜王町)生まれ。農商務省製茶巡回教師となり、これを普及活動するために、より効果的な軽印刷を求めた。そこでアメリカでトーマス・エジソンの発明した謄写版(ミメオグラフ)に目をつけ、これを真似た「ミリアグラフ」を製造開始した(工場所有権の保護に関するパリ条約に、日本はまだ加盟しておらず、堀井は国内で特許を申請)。

<堀井新治郎像>

場所:ガリ版伝承館(滋賀県東近江市岡本町905)

竣工:1923年5月

像高:

作者: 筑紫忠門(鋳造は伊藤和助)

撮影時:2019年10月13日

説明:像は堀井がまだ存命中に作られた。台座には、1935年に阪谷芳郎男爵の撰も書いてある。ガリ版伝承館は、堀井本家の建物を改修したもの。土日だけの開館だが、ガリ版の鉄筆を体験できるらしい(自分は、学生時代に鉄筆を引いたクチです)。

 

〇野口謙藏 (1901~1944)

 昭和期の洋画家。滋賀県蒲生郡桜川村(現東近江市)生まれ。生家は酒造業を営む裕福な家で、一流の画家や美術品に囲まれて育った。東京美術学校洋画家に入学し、黒田清輝和田英作に師事した。卒業後は故郷に帰り、帝展などに出品した。

<野口謙藏像>

場所:野口謙蔵記念館(滋賀県東近江市綺田町442)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2019年10月13日

説明:この場所は、謙蔵のアトリエを改造して作ったもの。像は銅像ではない。

 

〇北川弥助  (1911~2005)

 政治家。滋賀県議会議員。滋賀県神崎郡旭村(現滋賀県東近江市五箇荘伊野部町)生まれ。1950年の第1回統一地方議員選挙から14期連続で約53年在職し、近年まで県議の在職期間の最長記録保持者だった。県議会議長3回、全国農業共済協会副会長、愛知川沿岸土地改良区理事長などを歴任、琵琶湖総合開発事業、永源寺ダムの建設などをおこなった。

<北川弥助像>

場所:永源寺ダム右岸公園(滋賀県東近江市永源寺高野町

竣工:2004年5月

像高:

作者:清水富男

撮影時:2019年10月13日

説明:確かに顔つきがベテランらしさが漂います。右岸公園は、冬季は車では入れず、左岸の国道421号線で行って、ダムサイトを歩いたほうがいいと思います(駐車スペースないんですが)。

 

聖徳太子(少年期)  略

聖徳太子(少年期)像>

場所:南花沢農村公園

滋賀県東近江市南花沢町546)

竣工:1994年3月

像高:

作者:

撮影時:2019年10月13日

説明:聖徳太子厩戸王)が16歳の時に百済寺を建て(今から約1300年前)、その帰路にこの地で昼食をとり、使った箸を地面に差して、「私が広める仏教が栄える限り、この木も年々繁茂し、花をつけるだろう」といったところから。ちなみにその木は「ハナノキ」。手にはその枝を持っている。地名の由来もそこから来ている。ちなみに箸を南北の花沢村に差したということで、南花沢(樹齢450年。だが主幹は枯れてしまったようだ。公園の北側の八幡神社内にある)、北花沢(樹齢250年。ハナノキ公園内にある)の「ハナノキ」の巨木がある。

 

タロ・ジロ  (タロは1955~1970.ジロは1955~1960)

 樺太犬の兄弟。北海道稚内市生まれ。1956年に日本の第一次南極観測隊犬ぞりを使うこととなり、この兄弟などが候補として訓練を受けた。弟のサブロもいたが、訓練中に死んでいる。1956年11月南極観測船「宗谷」で出発、1957年昭和基地に到着した。翌年観測隊交代をする予定だったが、まれに見る悪天候で、イヌなどを見捨てて第2次隊は帰国する。翌年、第3次隊がペリコプターで昭和基地に近づくと、2頭のイヌが生存しているのを確認、救助した。それがタロとジロである。

<タロ・ジロ像>

場所:西堀榮三郎記念探検の殿堂(滋賀県東近江市横溝町424)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2019年10月13日

説明:正確には、「探検の殿堂」前の馬堤溜のほとりにいる。タロは第4次隊と共に帰国し、北海道大学植物園で1970年まで生きた。ジロは1960年に昭和基地で病死した。イヌの出身地の稚内稚内公園に「樺太犬訓練記念碑」(加藤顕清:1960年)と「南極地域学術観測樺太犬供養塔」(1961年)があり、1959年東京タワーに「樺太犬記念像」(安藤士)が作られたが、2013年国立極地研究所(東京立川市緑町)に移転した。また1987年名古屋市の名古屋港ガーデン埠頭にタロ・ジロ像が立てられた(富永直樹)。ここには2代目の南極観測船「ふじ」が係留されている。また大阪府堺市の大濱公園にも「樺太犬慰霊像」(岡村哲伸:1987)がある。これはもともと1958年に地元の岩田千虎氏が作ったコンクリート像の復元版。岩田氏はタロ・ジロの生存がわからなかったときにこれを制作している。