〇森はな (1911~2014)
教育者。滋賀県蒲生郡市辺町(現東近江市)生まれ。裁縫技術を教える京都女子高等技芸学校から大阪の阪急百貨店に勤務。1933年裁縫塾「和服裁縫研究所」を開設し、1955年八日市和洋女子専門学院とし、さらに1964年に八日市女子学園、1984年八日市女子高等学校とする。1990年には滋賀文化短期大学(現びわ湖学園大学短期大学部)を開設、1999年八日市女子高校を滋賀学園高等学校に校名変更、、2009年にびわこ学院大学を開学させた。
<森はな像>
場所:滋賀学園高等学校・中学校(滋賀県東近江市建部北町520-1)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2019年10月13日
説明:正門を入るとすぐに右側に胸像が見える。
〇聖徳太子 略
<聖徳太子像>
竣工:1977年
像高:
作者:
撮影時:2019年10月13日
説明:市神神社は、縁起によれば、約1400年前に聖徳太子が刻んだ事代主命、つまりゑびす大神を祀った神社。この像は町の有志の寄付金によって作られた。社務所には、ほかにも小さな聖徳太子像があるようだ。幼年期の聖徳太子像(下記)が太子ホール(滋賀県東近江市八日市町12-12:2005年か?)にある。また太郎坊宮(滋賀県東近江市小脇町)に、2022年3月、市内の金壽堂という鋳物メーカー(現在閉業)にあった聖徳太子像(2m:1980年代に鋳造)を移転し設置したそうだ。
〇豊臣秀次と邇保郷・桐原郷の庄屋3人
※ここでは豊臣秀次を紹介する。
(1568~1595)
戦国期から安土桃山期の武将、大名。羽柴秀次。豊臣秀吉の姉の長男。若いころは宮部継潤の養子から三好康長の養子など苦労をしたが、羽柴氏に復帰、秀吉が関白になる頃に秀次と改名した。秀吉の四国平定後に近江八幡に居城し、善政を布いたという。この銅像のエピソードもこの時のもの。1591年に関白に就任し政治を統括するが、1593年秀吉に継嗣秀頼が生まれると、1595年に突如粛清され、高野山で切腹した。
<豊臣秀次と邇保郷の庄屋3人像>
竣工:1998年10月?
像高:
作者:
撮影時:2019年10月13日
説明:橋の架かる日野川は天井川。したがって渇水の際には非常に困ったわけだ。1586年、この日野川流域の邇保郷と上流域の桐原郷の間で水利権争いが起こり、流血の騒動にまで発展してしまった。そこで邇保郷の庄屋たちが、近江八幡城主の羽柴秀次に直訴。秀次は両者の言い分をしっかりと聞き、両郷の納得する裁断を下した。3人は、邇保郷(江保、十王村)の2人と桐原郷1人の庄屋だという。秀次と庄屋3人は、橋の欄干部分の両サイドに立っていて、秀次像の下には、当時の裁可状が掲示してある。
〇眞弓先生 (1856~1910)
明治期の教育家。三重県生まれ。おそらく苗字が「眞弓」なのだと思う。滋賀県の大津師範学校を卒業し、ここ山本で教員となり、校長となったようだ。死の前年に依願退職した。
<眞弓先生像>
場所:五個荘あさひ幼児園(滋賀県東近江市五個荘山本町306)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2019年10月13日
説明:あまり記憶がないが、銅像探索中に発見した銅像のようだ。像のある所は幼児園となっているが、おそらく元小学校だったのではないか?
〇古川鉄治郎 (1878~1940)
実業家。伊藤忠商店(のちの伊藤忠)取締役・支配人、丸紅商店(のちの丸紅)専務取締役(実質社長だった)などを歴任した。滋賀県犬上郡豊郷村生まれ。1935年出身の豊郷村に小学校の寄付を申し出、60万円もの寄付額だったという。
<古川鉄治郎像>
竣工:1947年5月
像高:
作者:中川清
撮影時:2019年10月13日
説明:旧豊郷小学校は、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計。2009年から放映のアニメ「けいおん!」に登場する学校の校舎が、ここと酷似しており、そのモデルとして認知されたことで、いわゆる「聖地巡礼」として人気が出た。その後もさまざまなドラマで使われている。銅像は、校舎の正面向かって右側にいる。