5月から岐阜県編をはじめます。3月下旬に回ってきたばかりのホカホカのものです。
〇大野伴睦 (1897~1964)
戦前から戦後期の政治家。岐阜県山県郡谷合村(現山県市)生まれ。「ばんぼく」と読むが、本当は「ともちか」。学生期には護憲運動に関わり逮捕歴も。東京市市議会議員から衆議院議員となり(立憲政友会)、当選13回。前後日本自由党から、民主自由党、自由民主党と変遷し、この間に衆議院議長、北海道開発庁長官、自民党副総裁などを歴任する。
<大野伴睦像>
竣工:1964年12月
像高:5m
作者:北村西望 (黒谷美術)
撮影時:2023年3月25日
説明:東海道新幹線の岐阜羽島駅前には大きな大野伴睦夫妻の銅像があり、岐阜羽島駅は、大野伴睦の力による「政治駅」との俗説が巷を賑わせているが、実際は様々な経緯の中で作られたようである(詳細はWikipediaの「大野伴睦」及び「鉄道と政治」の中山道ルートと岐阜羽島駅を参照)。大野伴睦は開業の4か月前に急逝しており、銅像は彼の支持者の造立である。隣に立つ妻の名前は「きみ」。
〇不破成隆 (1904~1989)
医者(産婦人科医)。太平洋戦争に従軍し捕虜となる。帰国後羽島ライオンズクラブを立ち上げたほか、ボーイスカウトの事業にも尽力、根尾の薄墨桜の保存にも手を染め、また木曽三川の堤防を作った「薩摩義士」の顕彰事業にも携わった。
<不破成隆像>
竣工:1991年4月
像高:
作者:
撮影時:2023年3月25日
説明:鹿児島ライオンズクラブと羽島ライオンズクラブの共同事業で作られたもの。帽子をかぶっているのだが、それがライオンズクラブのものと気づいた。薩摩義士公園は、県道18号線の羽島大橋の東詰にあり、駐車スペースはあるが交通量が多いので、車で入るのは要注意である。
〇永田佐吉 (1701~1789)
江戸時代の後期の豪商、人徳者。美濃国羽栗郡竹ヶ鼻村(現羽島市)生まれ。貧農の家に生まれ幼くして両親と死別したが、綿や餅の商売をする中、相手との信頼関係を第一にし、私利私欲がなく、継母のために1759年に「佐吉大仏」を作った(江戸に発注した最初の像は輸送中に遠州灘に沈んだが、再度発注して無事運ばれたのが現在の像である)。
<永田佐吉像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2023年3月25日
説明:当初の堂は、1891年の濃尾地震で焼失し、その後は露座だったという。現在の堂は1962年に再建されたもの。銅像はこの堂の中にある。佐吉は戦前の国定教科書に載ったという。また近くの「青山スクエア」には、佐吉の石像もある。下の像は、佐吉の造った「大仏」である。
〇鈴木淳一 (1875~1946)
政治家、農政家。岐阜県安八郡名森村(現安八町)生まれ。旧名森村村長から岐阜県議会議員、岐阜県議会副議長を歴任。長良川と揖斐川にはさまれた安八町の水害に対し、堤防の建設や排水施設の建設など尽力した。
<鈴木淳一像>
竣工:1954年9月
像高:
作者: 河内能正
撮影時:2023年3月25日
説明:安八町役場入り口に立つ。長良川支流の犀川は特に排水が悪く、輪中が広がっていたが、江戸時代からの改修計画が大正期に実行されようとする中、下流の安八郡の各町村は激しく抵抗し、犀川事件が起こった。鈴木淳一村長はその中心だったようだ。
〇豊臣秀吉
略
<豊臣秀吉像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2007年12月23日
説明:1560年美濃攻めを決めた織田信長が、長良川沿いのポイントとなる墨俣を拠点としたかったのであるが、斎藤氏もここを織田方に取られては困るので、なかなか落とせなかった。木下藤吉郎時代の秀吉は、この地域の土豪蜂須賀小六と知り合い、彼の力添えでこの地に砦を築き、ここを拠点に美濃攻めに成功した。わずか3日間で作り上げたところから「墨俣一夜城」と称されるようになり、秀吉の出世の糸口となった城である。
2023年の旅では墨俣城址には行かなかった。春が異常に暖かく、墨俣城址近辺の桜並木が満開になったためである(1週間ぐらい早い感じだった)。
〇宮田慶三郎 (1906~1997)
教育者、実業家、歯科医。北海道に生まれ、大阪歯科医学専門学校(現大阪歯科大学)を卒業し、歯科医院を開業した。その後城西歯科大学(現明海大学)、岐阜歯科大学)現朝日大学)を創立した。
<宮田慶三郎像>
竣工:1981年11月
像高:
作者:
撮影時:2023年3月25日
説明:この像は、朝日大学開学10周年の事業のひとつとして作られたもので、当時は寿像であった。