銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

岐阜県編   その4

藤原高光  (939?~994)

 平安中期の貴族、家人。藤原氏北家、右大臣藤原師輔の子。三十六歌仙の一人。父の死により出家し、比叡山の横川に入ったが、翌年大和国多武峰に移り住んだ。

藤原高光像>

場所:高賀神社(岐阜県関市洞戸高賀1217)

竣工:1988年8月

像高:

作者:

撮影時:2023年3月25日

説明:本人なのかはわからないが、天暦年間(947~957)に、美濃国高賀山(現岐阜県関市付近)で「さるとらへび」という妖怪を退治したとされる。この高賀山近辺には、藤原高光が創建したとされる「高賀六社」がある。歌人としての高光とこの像の伝説とはなかなか結びつかない。

像の脇には六角形の「関市洞戸円空記念館」がある。十一面観音・虚空蔵菩薩狛犬などの像が安置されている。

 

〇サーブ  (1977~1988)

 シェパードの盲導犬。愛知県の中部盲導犬協会で訓練を受け、岐阜県のマッサージ治療院を営む男性を主人とした。1982年の1月、岐阜県郡上郡美並村(現郡上市)の国道156号線を誘導中に、雪でスリップした車から主人をかばって重傷を負い、その傷が原因で左前脚を失った。この話から『がんばれ!盲導犬サーブ』(手島悠介)が出版され、ベストセラーとなった。

<サーブ像>

場所:郡上市健康福祉センターさつき苑(岐阜県郡上市白山430-3)

竣工: 1990年8月(1998年10月移設)

像高:

作者:伊藤宣郎

撮影時:2023年3月25日

説明:この像は、当初は美並町内に置かれていたが、1998年に現在地に移設された。サーブ像はほかに2体ある。1体は、久屋大通公園の栄バスターミナル(愛知県名古屋市東区東桜1-11-12)。この像は1986年に国鉄(JR)名古屋駅前に立てられたが、JRセントラルタワーズの建設に伴い、像が目立たなくなったため、2003年に先の地に移設された。もう1体は、アメリテキサス州に贈られるはずが果たせず、約25年間お蔵入りしていたが、2010年6月に、中部盲導犬協会(愛知県名古屋市港区寛政町3-41-1)正面に設置された。

 

〇岩崎瀧三  (1895~1965)

 実業家。岐阜県郡上郡八幡町(現岐阜県郡上市)生まれ。1932年大阪で「食品模型岩崎製作所」を設立、食品サンプルの事業家に初めて成功した。

<岩崎瀧三像>

場所:サンプルビレッジいわさき(岐阜県郡上市八幡町城南町250)

竣工:1982年6月

像高:

作者: (株)立体写真像(盛岡勇夫)

撮影時:2023年3月25日

説明:ふるさとを愛していた岩崎が、1955年にこの地に岐阜工場を建て、ふるさとに貢献した。いわさきグループは、食品サンプル業界でシェア70%だという。食品サンプルの第1号は「オムレツ」だったという。

 

〇仲上忠平  (1874~1937)

 政治家。岐阜県郡上郡八幡町(現岐阜県郡上市)生まれ。町議会議員から県議会議員を経て、八幡町長となり、24年間町政の発展に寄与した。

<仲上忠平像>

場所:郡上八幡旧庁舎記念館(岐阜県郡上市八幡町島谷520-1)

竣工:1954年 11月

像高:

作者:高藤鎮夫

撮影時:2023年3月25日

説明:現職のまま亡くなったという。越尾南線の開設、八幡城の再建、大正期の大火災の復興などをおこない、像が町民の浄財で作られたというから、かなり慕われていたのだろう。

 

山内一豊 (1545?~1605)

 戦国期から江戸初期の武将、大名。土佐藩初代藩主。尾張国岩倉(現愛知県岩倉市)生まれ。織田信長の配下として頭角を現し、近江長浜城主から遠江掛川城主を経て、関ヶ原の戦い後に土佐に入り、高知城主となった。

 

○千代 (1557~1617)

 山内一豊の正妻。見性院近江国生まれとされていたが、近年美濃国郡上郡の郡上八幡城主、遠藤盛数の娘という説が出され、有力となっている。有名な逸話に、嫁入りの持参金(もしくはへそくり)で、夫の一豊のほしがっていた名馬(鏡栗毛)を購入し、それが信長の馬揃えの際に注目され、一豊が加増された、という話がある。

山内一豊&千代像>

場所:城山公園(岐阜県郡上市八幡町柳町469-1)

竣工: 1991年10月

像高:

作者:石黒孫七(製作は(株)松沢美術)

撮影時:2023年3月25日

説明:郡上八幡城のすぐ下にある城山公園にある。ちょうど駐車場の真ん前になる。像の脇に城への登り口がある(行ったときは耐震補強工事で登城が禁止されていた)。