都合により、しばらく休載します。
滋賀県編 その9
※この頃は、銅像を撮るだけでいっぱいいっぱいで、作者とか制作年月日には興味が薄く、データがなくて残念です…
〇教如(1558~1614)
安土桃山期から江戸初期の浄土真宗の僧。浄土真宗大谷派第12代門首。東本願寺住職。諱は光寿。摂津国大坂(現在大阪府大阪市)本願寺生まれ。顕如の子。石山戦争において、1580年、父が正親町天皇の和議によって石山を去るが、主戦派として4か月籠城を続けた。顕如は教如を義絶した。これによって本願寺の東西分裂の遠因を作った。
<教如像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2014年8月20日
説明:この五村別院は、1593年豊富秀吉によって本願寺12世の職を解かれた教如を、この地の大村刑部左衛門らが迎えて坊舎を建てたことに始まる。境内には教如の遺骨を納めた廟がある。
〇虎姫 (略)
伝説の女性。昔長尾山のふもとの「桃酢谷の井筒の泉」に畔に住んでいた女性(虎御前とも)。ある日道に迷ったのを助けたことが縁で、土地の長者、世々開(せせらぎ)と一緒に暮らすようになり、15人もの子供をもうけた。しかしどの子も顔以外には鱗に覆われた子蛇だった。彼女は悲観して、女性が淵(みせがふち)に身を投げてしまった。その後、子供たちは立派に育ち、成人になる頃には人間と同じ容姿になり、近隣の村々を治めた。このことから長尾山を「虎御前山」と呼ぶようになり、町の名も「虎姫」になった、とのこと。
<虎姫像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2014年8月20日
説明:吹いている笛に鳥が止まっているのはなぜか?「虎姫」なる町名の、「虎」がつくのは全国にここしかない(今は長浜市に合併したので、行政名は消滅)。また比叡山中興の祖で、の横川の元三大師堂の良源(元三大師)は、この地に生まれとのこと。
〇浅井長政 (1545~1573)
戦国期の武将。北近江の戦国大名。近江国蒲生郡の観音寺城下(現滋賀県近江八幡市安土町)で生まれた。六角氏の家臣だった浅井氏を戦国大名まで成長させ、織田信長の妹、お市を妻にすると、信長と同盟を結んだ。しかし、1570年に突如同盟を破棄して、織田・徳川軍を背後から攻め、織田軍を敗走させた。信長は同年に、姉川の戦いで長政・朝倉義景軍を破り、さらに1573年に小谷城を攻め、長政は自害した。
お市 (1547?~1583)
戦国期の女性、織田信長の妹。最初北近江の浅井長政に嫁ぎ、三人の娘(茶々・初・江<江与>)を得る。しかし、長政が裏切ったため、住していた小谷城を攻められた。お市は三人の娘と共に助けられ、兄の岐阜城に戻った。本能寺の変の後、信長の家臣、柴田勝家に嫁いだ。しかし勝家は豊臣秀吉に反旗を翻し、静ヶ谷の戦いに敗れた後、本拠の北ノ庄城に籠るが、夫の勝家と共に自害した、三人の娘は助けられた。
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2014年8月20日
説明:一応、浅井氏の居城だった小谷城は、河芸駅が最寄駅。だが、駅前からバスが出ているわけでもなく、銅像がここに立っても意味はない。それに、像もなんかかっこ悪いんだよね…
〇雨森芳洲(あめのもりほうしゅう) (1668~1755)
江戸時代の儒者。諱は俊良、のち誠清(のぶきよ)。木下順庵の門下で、新井白石らと共に「木門の五先生」や「木門の十哲」の一人。近江国伊香郡雨森村(現滋賀県長浜市高月町)生まれ。京都で医学を学んだあと、江戸に出て木下順庵に入門。秀才と言われ、師匠の推薦で対馬藩に仕官した。語学にも堪能で、対馬藩のために尽くした。
<雨森芳洲像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2014年8月20日
説明:小学校からほど近い「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」内には、芳洲の木像がある。
〇戦場の武将 略
<戦場の武将像>
竣工: 1984年5月
像高:
作者: 須川常美
撮影時:2014年8月20日
説明:豊臣(羽柴)軍と柴田軍が戦った、賤ケ岳の戦いで知られる、北近江の賤ヶ岳の山頂付近にある像。作者の説明が脇にあり、像のタイトルが「戦のあと」。それによると、戦勝した秀吉軍も、さらに厳しく哀しい戦いの現実を知り、また戦いに赴かなければならないという「宿命」を描いたものだそう。「敗残兵」ではないところが面白いか?
〇浅井家の人びと 略
浅井長政と妻お市、三姉妹(茶々、初、江)と長男、万福丸、次男の万寿丸の像である。
<浅井家の人びと像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2014年8月20日
説明:なお、近くの「道の駅浅井三姉妹の郷」(滋賀県長浜市内保町2843)には、写真を見る限り、同鋳型と思われる「お市」と「三姉妹」の像がある。
滋賀県編 その8
〇番場の忠太郎
長谷川伸の戯曲『瞼の母』の主人公。近江国番場の旅籠「おきなが屋忠兵衛」に生まれるが、5歳の時に母(おはま)と生き別れ、12歳の時に父も死去、以降ヤクザの世界に足を踏み入れながら、母探しに旅に出る。やがて江戸柳橋の料理茶屋の主人となっていた母に会うが、様々ないきさつから両者は、自らを名乗らずに別れていく。
<番場の忠太郎像>
竣工:
像高:
作者:酒井源三
撮影時:2014年8月20日
説明:一説には、著者の長谷川伸が、この蓮華寺を訪れた際、1333年の鎌倉幕府滅亡時に、六波羅探題だった北条仲時以下430余名が当地で自害した話を聞き、その中に14、15歳の若者もいたこと、著者も3歳の時に母と別れたことなどから、『瞼の母』を創作したとのこと。当寺には、1958年に著者が建てた「忠太郎地蔵尊」もあり、資料室もある。この像は資料室にあるもの。また、国道21号線(中山道)と名神高速米原ICの出入り口そばにあった「忠太郎食堂」には、「番場の忠太郎」の銅像があった(下記写真参照:像高1.75m)。しかし10年ほど前、食堂の閉店と共に銅像も無くなった。これを「番場史蹟顕彰会」のメンバーが探していたところ、長浜市の男性が像を譲り受け、自宅庭に移築したことがわかったという。そこで会がこれを引き取り、番場に移設することになったという(現在CF「キャンプファイヤー」で資金を募っているようだ)。
〇霊仙三蔵 (759?~827?)
平安時代の法相宗の高僧。804年の遣唐使になり、憲宗皇帝に才能を認められ、「大乗本生心地観経」という経典の翻訳に従事し、その功績により「三蔵」という称号を与えられたという。しかし帰国することができず、五台山の霊境寺で亡くなったとされる。出自にはいくつかの説があり、近江国醒ヶ井、阿波国など。近くの松尾山には松尾寺と「霊仙三蔵記念堂」がある。
<霊仙三蔵像>
竣工:
像高:
作者:森大造
撮影時:2014年8月20日
説明:解説板によると、森大造氏の彫刻の模刻とのこと。また「霊仙三蔵記念堂」内には、霊仙三蔵の木像が安置されている。
〇日本武尊
記紀に伝わる日本の皇族。第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲や東国征伐をおこなった、日本古代史上の伝説的英雄である。
<日本武尊像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2014年8月20日
説明:名水「居醒(いさめ)の清水」があり、日本武尊が伊吹さんの荒ぶる神と戦い、傷ついた体の毒を洗い流した霊水とも言われている。「日本武尊鞍掛石・腰掛石」がある。
〇息長宿禰王(おきながすくねおう) (?~?)
2世紀ごろの日本の皇族。第9代開化天皇の玄孫で、迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)の王子。神功皇后の父。
<息長宿禰王像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2014年8月20日
説明:県道243号線、米原バイパス沿い、顔戸交差点近くに立つ。隣には「豪族息長氏郷聚碑」も立つ。像は、左手に「息長足媛命」を抱き、右手の杖には白蛇が巻き付いている。
〇石田三成 (1560~1600)
安土桃山期の武将・大名。豊臣秀吉の家臣、五奉行。近江佐和山城主。近江国坂田郡石田村(現滋賀県長浜市石田町)生まれ。秀吉が長浜城主になった頃、父や兄とともに仕官し、次第に出世した。戦争よりも兵站や武器の調達、大名の取次などで評価を高めた。朝鮮侵略の頃からいわゆる武断派の、福島正則・黒田長政らと溝ができ、秀吉の死後、武断派による三成襲撃事件が起きた折には、徳川家康の仲介で和睦した。しかし、1600年関ケ原の戦いではその家康と戦い、西軍の実質的大将として敗北し、捕縛されて斬首された。
<石田三成像>
竣工:1990年11月
像高:
作者:喜多敏勝
撮影時:2014年8月20日
説明:この地は三成の故郷。石田会館は公民館だが、石田氏城館の跡に建つようだ。長浜駅から「駅前通り」を5㌔ほど進むと当該地につく。
〇佐野庄太郎 (?~?)
実業家。京都市で絹織物問屋を開く。小学校の時に貧しくて修学旅行に行けなかったため、成功時に浅井南小学校(七尾小学校)に奨学資金を寄付した。
<佐野庄太郎像>
場所:長濱蒸留所AZAI FAGTORY(滋賀県長浜市佐野町22)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2014年8月20日
説明:像には「寿像」となるので、銅像の立った時には佐野氏はご存命だったようだ。ネットには、台湾の北投温泉に「星乃湯」を開いた人物が出てくるが、この人物は静岡県生まれなので別人だろう。この地は旧七尾小学校である(2018年3月閉校)。姉川の古戦場の近くになる。現在は「長濱浪漫ビール」のウイスキー蒸留所となっている(2016年から稼働したようだ。ということは、移転したのは2018年以降ということ)。