銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

沖縄県編   その3

〇奏寿院天龍 (?~?)

 僧侶。修験道修験本宗(吉野の金峯山寺が本山)。ほかはわからないが、道心寺の初代(1986年建立)であろう。

<奏寿院天龍像>

場所:道心寺(沖縄県豊見城市翁長207)

竣工:1990年2月

像高:

作者:辻志郎か?

撮影時:2024年1月6日

説明:仏教ではなく、修験道の「金峯山修験本宗」の寺院。像は本堂の左手に座す。天気がよくて、写真は真っ黒です…。

 

〇宮城好太郎(みやぎよしたろう) (1924~)

 自治功労者。琉球政府時代の糸満町助役で糸満町合併(1961)、糸満市発足(1971)に尽力。糸満市土地開発公社初代理事長として西崎町などの埋立てにも携わった。

<宮城好太郎像>

場所:西崎運動公園(沖縄県糸満市西崎町3-1)

竣工:1991年11月

像高:

作者:喜多敏勝(四津井工房)

撮影時:2024年1月6日

説明:像が立ったときは、氏はまだご存命だった(寿像なので)。埋立ての西崎区にこの西崎公園はある。ここはプールからテニスコート、体育館、野球場などある総合運動公園である。その真ん中に像は立っている。

 

〇金城和信(きんじょうわしん) (1898~1978)

 教育者、社会事業家。沖縄県出身。戦前は沖縄の小学校校長を歴任。戦後真和志村村長に任命された。真和志村は太平洋線の沖縄戦の激戦地、摩文仁があり、村長として遺骨の収集をおこない、1946年、3万5千余の遺骨を納めた「魂魄之塔」を建立した。また1954年に沖縄戦没学徒援護会を設立した。

<金城和信像>

場所:魂魄之塔(沖縄県糸満市米須)

竣工:1980年10月

像高:

作者:北村西望

撮影時:2024年1月6日

説明:魂魄之塔は、沖縄本島最南端の荒埼近くにあり、「平和創造の森公園」の北端に位置する。沖縄戦で亡くなられた人の名を刻んだ「平和の礎」のある「沖縄平和祈念公園」はもう少し北の方になる。魂魄之塔の周りには道府県別の慰霊碑が建ち並ぶが、すぐ下の海岸がサーフィンの好地であるようで、駐車場にはそうした車が止まっていた。やはりこのあたりは切ない気持ちになる。

 

〇ジョン万次郎  (1827~1898)

 江戸末期から明治期の武士、教育者、翻訳家。土佐国幡多郡中ノ浜村(現高知県土佐清水市)生まれ。漁師として乗った船が遭難し、鳥島アメリカ船に救出され、アメリカでさまざまなことを学び、1851年沖縄に上陸し、薩摩藩から長崎を経て土佐に帰国した。その後は幕府に採用され、通訳や翻訳などに従事し、日米修好通商条約の批准のために咸臨丸に乗船し活躍した。明治維新後は開成学校(後の東京大学)の英語教授となった。

<ジョン万次郎像>

場所:大度海岸(沖縄県糸満市大度337)

竣工:2018年2月

像高: 1.8㍍

作者: 四津井工房

撮影時:2024年1月6日

説明:大度海岸は、魂魄之塔のある平和創造の森公園と平和祈念公園の間で、沖縄本島の最南端に近い。記念碑のあるところに入る道がわかりにくく、迷ってしまった。住宅街には入らず、その下の農地の中を海に向かっていくこととなる。ここのサーフビーチのようで、多くのサーファーの車が駐車場に止まっていた。このあたりではにわかにかき曇り、風がものすごく強くなった。

 

謝花昇(じゃはなのぼる) (1865~1908)

 官僚、社会運動家。沖縄民権運動の父。琉球の東風平(現沖縄県八重瀬町)の農家に生まれる。沖縄師範学校から帝国農科大学に進み、近代農業を学ぶ。卒業後沖縄県庁に勤めるが、奈良原繁知事が就任すると対立し、退職して「沖縄倶楽部」を作り、沖縄の自治県参政権獲得のために活動するが、反対運動も激しく、運動は行き詰まった。運動の再起を図ろうと本土に渡ったが兵庫県の神戸で倒れ、1908年に病死した。

謝花昇像>

場所:東風平(こちんだ)運動公園(沖縄県島尻郡八重瀬町東風平1076)

竣工:1964年 (当初像は1935年立てられたが、金属供出で無くなった)。当初は八重瀬中央公民館(旧八重瀬町役場)前に立っていたが、2009年運動公園の整備により移転した。)

像高:

作者:

撮影時:2024年1月6日

説明:像は東風平運動公園という丘の上にあるが、その中でも小高い丘の上に立ち、最後は氏の生涯に因んだ44段の階段を登ることになる。そして八重瀬岳の方を臨んでいる。この写真も思ったよりも顔が黒いですね。

 

〇大城幸之一 (1879~1932)

 政治家、医師。沖縄県島尻郡玉城村(現沖縄県南城市)生まれ。医師となり、県病院に勤務後、郷里に医院を開業した。その後玉城村議会議員、沖縄県議会議員。県議会議長となった。1925年から衆議院議員となった。

<大城幸之一像>

場所:奥武島観音堂沖縄県南城市玉城奥武108)

竣工:1982年10月

像高:

作者:西村貞雄か?

撮影時:2024年1月6日

説明:奥武島のど真ん中、奥武島観音堂の前に立つ。島の中の道は狭いので注意だが、観音堂の前には駐車スペースがある。このあたりでは少し雨が降ってきた。島の入り口の中本鮮魚天ぷら店はいつでも並んでいる。魚の天ぷらが美味しいらしい。そこの2階(まる天)で食事をしたが、1階とはちょっと違うようで、天ぷらは油濃かった。

沖縄県編   その2

〇長嶺秋夫  (1908~2002)

 政治家。小禄村村長、沖縄統治下の沖縄立法院議員(7期)、立法院副議長、議長を歴任した。沖縄の本土復帰で沖縄県議会議員にもなった。沖縄県小禄村生まれ。

<長嶺秋夫像>

場所:フチミンガー(沖縄県那覇市田原206-1)

竣工:1994年3月

像高:

作者:

撮影時:2024年1月6日

説明:小禄の住宅地の中にいるが、小禄のあたりは戦後、米軍の施設隣接地であったため、元の住民に返還されにくかった。氏などの努力で崖地であったが、このあたりが返還され、宅地造成をしたところだそうだ。像が立ったとき氏は存命で、寿像であった。

 

明治天皇 (1852~1912)

 略

明治天皇像>

場所:波上宮沖縄県那覇市若狭1-25-11)

竣工:1970年 10月

像高:

作者:小金丸歳久

撮影時:2024年1月6日

説明:沖縄に明治天皇像は、矛盾している気もしたが、この像の造立が沖縄の本土復帰の2年前、前年に佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン大統領との間で、沖縄返還が約束されたときである。沖縄の有志が、沖縄の本土復帰と明治期の「近代国家の指導者」である明治天皇を結びつけたものとする。台座の銘板には「五箇条の誓文」が彫り込まれている。

 

孔子 (BC552または551~BC479)

 古代中国の思想家、哲学者。儒教の祖。諱は丘、字は仲尼。古代中国の周末、魯の国生まれ、周初めへの復古により、身分秩序の再編と仁道政治を唱えた。

孔子像>

場所:那覇商工会議所沖縄県那覇市久米2-2-10)

竣工:1981年9月

像高:

作者:

撮影時:2024年1月6日

説明:この地は、1676年に孔子廟の「久米至聖廟」があり、1718年に琉球王国程順則名護親方により「明倫堂」が建てられたところである。像は中華民国蒋介石から贈られたものである。

 

親鸞 (1173~1263)

 鎌倉時代の僧侶。浄土真宗の祖。

親鸞像>

場所:大典寺(沖縄県那覇市松山1-9-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2024年1月6日

説明:沖縄の寺は珍しい感じで、調べてみた。琉球王国は江戸時代に薩摩藩により侵攻されたが、薩摩藩が仏教を軽視しており、江戸時代の日本では普通の檀家制度がとられていない(各家の墓地は「御嶽」と呼ばれる拝所に祀られる)。しかも浄土真宗琉球王国により禁制が取られており、1879年から布教が許されたそうだ。

ちなみに時間の関係で撮れなかったのだが、恩納ビーチの近く(沖縄県国頭郡恩納村真栄田)には、巨大な親鸞像がある。この像は(株)ミツトヨの創業者の沼田恵範が2006年に立てたものだそうだ。

 

 

〇城間徳太郎 (1933~)

 琉球伝統芸能家。沖縄県那覇生まれ。奥浜思樽(おくはまおもたる)、真境名由康(まじきなゆうこう)に琉球伝統の音楽劇、組踊を学ぶ。重要無形文化財(1986)、人間国宝(2005)(いずれも「組踊音楽歌三線」)。

<城間徳太郎像>

場所:与儀八三会館(沖縄県那覇市与儀1-15-10)

竣工:2017年12月

像高:

作者:喜多敏勝

撮影時:2024年1月6日

説明:那覇市与儀地区の自治団体「与儀八三会」と城間徳太郎門下会の共同で立てた。まだご存命で、このあたりにお住まいのようだ。

 

〇宮里春行 (1911~1992)

 琉球楽家沖縄県島尻郡知念生まれ。農林技師の傍ら、歌三線を古堅盛保に師事し、戦後音楽に専念、1962年には安富祖隆絃声会会長となった。

<宮里春行像>

場所:那覇市立中央図書館(旧沖縄県立図書館)(沖縄県那覇市寄宮1-2)

竣工:2002年 10月

像高:

作者:喜多敏勝

撮影時:2024年1月6日

説明:旧沖縄県立図書館は移転され、廃墟化している。そこと与儀公園およびタウンプラザかねひで与儀公園市場、沖縄県建設技術センターとの交差点の角に立つ(座っている?)。今回の旅で気づいたが、琉球古典芸能の関係者の像が多い。

沖縄県編   その1

 一ヶ月程度サボっていました💦。その間掲載していた地図は、私が銅像ハンティングの際に、調査し地図に落とし、実際に基づいて旅をしているものです。大方位置情報も合っていると思います。理想は、銅像ハンティング後に、撮ってきた写真を貼付することですが、元来の怠け者、なかなかそこまでできていません。

 さて、1月にハンティングしていた沖縄編をはじめようと思います。と言っても、島の多い沖縄県石垣島西表島座間味島阿嘉島久米島南大東島には行けていません。最後には地図も貼付したいと思います。

 では…

〇下地玄信 (1894~1984

 公民会計士、政治活動家沖縄県宮古郡平良間切東仲宗根(現沖縄県宮古島市)生まれ。上海東亜同文書院を卒業後、さまざまな職歴を経て、西洋のアジア侵略をおそれ、アジア民族大会から大政翼賛会で理事を務める。戦後は朝日新聞社社主故村山龍平の相続税をめぐる話から公認会計士となり、日本公認会計士協会を設立、副会長となる。1972年に沖縄の日本復帰後、平良名誉市民となり、下地育英文庫を琉球大学に寄贈、下地育英会を創設し、奨学生を送り続けている。

<下地玄信像>

場所:宮古島市熱帯植物園(沖縄県宮古島市平良東仲宗根添1166-286)

竣工:1973年11月

像高:

作者:山中靖三

撮影時:2024年1月5日

説明:宮古島に着き、最初に向かったところ。入場は無料で、植物園を名乗っているが、「公園」に毛が生えた程度か。園に入り正面右側の「チガヤ工房」の手前に立っている。「育英の父」の銘が貼られているように、左手には、氏を見上げる少女を伴っている。

 

〇眞栄城徳松 (1911~1989)

 政治家。沖縄県宮古郡平良西里(現沖縄県宮古島市)生まれ。28歳の若さで町議会議員になって以来、琉球立法院議員3期、旧平良市長2期を務める。宮古島の発展に寄与し、港湾・漁港の整備、上水道組合設立、植物園の造成、池間大橋の実現に尽くした。また宮古島毎日新聞社を創設した。

<眞栄城徳松像>

場所:宮古島市熱帯植物園(沖縄県宮古島市平良東仲宗根添1166-286)

竣工:1985年8月

像高:

作者:般若純一郎

撮影時:2024年1月5日

説明:植物園の地は、太平洋戦争中に塹壕などになって荒れ果てていたため、植物園を造成したらしい。また池間大橋の架橋を実現したという所から、2014年5月に、池間大橋の池間詰広場にも氏の胸像が作られた。こちらもおそらく同じ鋳型からの鋳造と思われる(右は池間大橋)。

 

〇盛島明長 (1880~1941)

 医師、政治家。沖縄県宮古郡下地島(現沖縄県宮古島市)生まれ。沖縄県師範学校を卒業後、一時小学校の訓導を務めたが、その後長崎医学専門学校に入り直し、1908年卒業後、郷里に医院を開業した。医業の傍ら県議会議員(4期)となり、副議長、議長を歴任、1936年には宮古初の衆議院議員となった(2期)。

<盛島明長像>

場所:宮古高校(沖縄県宮古島市平良西里718-1)

竣工:1965年9月(2014年10月現在地に移設)

像高:

作者:

撮影時:2024年1月5日

説明:宮古中学校(現宮古高校)の設立、宮古高等女学校の県立移管や宮古島測候所や池間島灯台の設立など、島の発展に寄与した。像は当初は旧宮古地方庁舎前庭に置かれ、その後旧宮古神社に移設されたが、神社の新築移転に伴い、現在地へ移設した。

 

〇石原雅太郎 (1881~1975)

 教育者、政治家。沖縄師範学校を卒業後、小学校に勤務し、佐良浜小学校長を経て、戦前に平良町長(4期)、戦後に平良市長(2期)を務める。島の三大事業(電気・水道・桟橋工事)を完成させる。

<石原雅太郎像>

場所:宮古島市役所(沖縄県宮古島市平良西里1140)

竣工:1963年3月

像高:

作者:「武」の銘あり

撮影時:2024年1月5日

説明:旧平良市役所玄関前に立っていたが、宮古島市に合併後、現在地に移設された。

当初、宮古島の像はこれだけだったのだが、現ブログを書く際にネットサーフィンしていたら「ATALAS Blog」なるサイトに行き当たり、そこにさらに2体の銅像を見つけてしまった。一人は「竹野寛才」(沖縄製糖(株)宮古工場:沖縄県宮古島市下地上地725敷地内。沖縄製糖の創業者の一人らしい)。もう一人は「比嘉財定」(比嘉地域総合施設<いわゆる公民館>:沖縄県宮古島市城辺比嘉159。ブログによると旧制第五中学校<現熊本大学>で下村湖人(『次郎物語』の著者)に、東京帝国大学柳田國男に会ったという。その後農商務省に入省し各地をめぐるが、アメリカに留学し同地に病没。何をしたかは定かではないが、郷土の名士というところか?)。再度行かねばなるまい…