〇佐野常民 略
<佐野常民像>
竣工: 1968年12月
像高:
作者: 古賀忠雄
撮影時:2019年6月2日
説明:佐賀県支部の正面駐車場の真ん中に立つ。明治100周年記念に建立されたらしい。彫刻家の「古賀忠雄」(1903~1976)についてちょっと書いておこう。佐賀市水ヶ江生まれ。有田工業学校(現有田工業高校)を経て、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科塑像本科に入学、多くの作品を作った。作品の多くは佐賀県立美術館に隣接する佐賀城公園内の「古賀忠雄彫刻の森」に常設展示されている(無料で見られる)。主な作品(私の定義による銅像)に、「現代を見つめる西郷隆盛」(鹿児島県霧島市西郷公園=鹿児島空港の近く)。
〇面浮立(めんぶりゅう)
佐賀県を代表する伝統民俗芸能で、風流踊りの一種。大太鼓を中心に、締太鼓・大鉦・笛・鼓などで囃しながら、華やかな装束や鬼面を身につけた一行が道行をする。「浮立」=「風流」と思われる。
<面浮立像>
竣工: 1980年10月
像高:
作者:
撮影時:2019年6月2日
説明:「面浮立」の説明を読むと、現在は鹿島市とか県西部でおこなわれていることが多いらしい。何で佐賀駅に立てたんだろう?また諫早駅(長崎県)にも「面浮立」像があるらしい。なお、佐賀駅北口には「反射炉」の模型像がある。
※「肥前さが幕末維新博覧会」のモニュメントシリーズ
このシリーズは、原型を徳安和博(佐賀大学芸術地域デザイン学部教授)が作り、竹中銅器㈱が鋳造した。佐賀新聞の記事によると、「銅製」ではなく「アルミ製」に青銅色を塗ったようだ。当初は、維新博の終了後に撤去、もしくは出身地に移動させる予定だったが、人気のため同じ場所に置かれ、出身地には新たに11体を作った。
モニュメントに関するHPは(https://www.saga-hizen150.com/ijinmonument/)を参照。
江戸時代末期の大名、佐賀藩主(第10代)。「佐賀の七賢人」の一人で、財政悪化していた佐賀藩の藩政改革を成功させた。また藩校弘道館を拡充して、優秀な人材を育成するとともに、西洋の軍事技術の導入を図り、反射炉を導入してアームストロング砲の製造に成功、三重津海軍所の設置により、蒸気船凌風丸を建造させている。号は閑叟。
<鍋島直正像>
場所: 駅前まちかど広場
竣工: 2018年11月
像高:
作者: 上記※印参照
撮影時:2019年6月2日
説明:佐賀駅南口から約300m南下した、「駅前交番西」信号の北西角の広場にある。3体像の中心で、手に扇子を持つ。
〇古賀穀堂 (1778~1836)
江戸時代後期の朱子学者。佐賀藩年寄。寛政の三博士の一人、古河精里の子。藩校弘道館の教授から鍋島直正の教育係となり、直政が藩主になってからも意見書を出すなど、藩政改革を後押しした。
<古賀穀堂像>
場所: 駅前まちかど広場
竣工: 2018年11月
像高:
作者: 上記※印参照
撮影時:2019年6月2日
説明:佐賀駅南口から約300m南下した、「駅前交番西」信号の北西角の広場にある。3体像の左で、手に書物を持つ。
〇鍋島茂義 略
<鍋島茂義像>
駅前まちかど広場
竣工: 2018年11月
像高:
作者: 上記※印参照
撮影時:2019年6月2日
説明:佐賀駅南口から約300m南下した、「駅前交番西」信号の北西角の広場にある。3体像の右で、手に地球儀を持つ。
〇大隈重信 (1838~1922)
江戸時代末期の武士(佐賀藩士)、明治期の政治家、教育者。佐賀市水ヶ江生まれ。藩校弘道館に学び、その後洋学を中心に学んだり、教授したりした。結構行動力はあるが、その行動で学んだことを周りに人間に説得させることはできなかったようだ。以降については、東京編を参照してください。
<大隈重信像>
場所: 駅前まちかど広場
竣工: 2018年11月
像高:
作者: 上記※印参照
撮影時:2019年6月2日
説明:佐賀駅南口から約300m南下した、「駅前交番西」信号の北西角の広場にある。副島種臣とのセットで、広場の一番奥にいる。
〇副島種臣 (1828~1905)
江戸時代末期の武士(佐賀藩士)、明治期の政治家。佐賀市生まれ。大隈重信とともに行動することも多く、明治にあると外務卿として「マリア=ルス号事件」を解決した。1873年に明治6年の政変で下野し、1874年に「民撰議院設立の建白書」を板垣退助らと提出したが、自由民権運動には参加しなかった。その後は枢密院で活動し、第2次松方内閣では内務大臣になった。一方、書が堪能で「書家」としても有名である。
<副島種臣像>
場所: 駅前まちかど広場
竣工: 2018年11月
像高:
作者: 上記※印参照
撮影時:2019年6月2日
説明:佐賀駅南口から約300m南下した、「駅前交番西」信号の北西角の広場にある。日本史の教科書にも載る人物であるが、活動はやや地味で、ここで銅像になっていないと、なかなか銅像化は実現しなかったかもしれない。大隈重信とのセットで、広場の一番奥にいる。