〇益田兼尭 (?~1485)
室町時代後期の武将。国人領主。幼名は松寿。石見国益田生まれ。益田氏当主として大内氏に従う以外に、幕府に直属することもあり、大内氏や幕府に従って各地を転戦した。応仁の乱時に息子の貞兼は西軍に就いたが、兼尭は東軍とも誼を通じて本領を安堵されている。また雪舟等楊とも親交があったと伝えられ、雪舟による肖像画が残されている(国の重要文化財)。
<益田兼尭像>
竣工: 1992年10月
像高:
作者:
撮影時:2024年8月22日
説明:近くの医王寺内には木像もある。像のモデルの雪舟画の「益田兼尭像」は、市立雪舟の郷記念館に収蔵されている。
〇永島運一 (?~?)
教育者。学校法人永島学園の創設者。松江簿記学校(島根商業高校。現松江西高校)、出雲高等経理学校(出雲商業高校。現出雲西高校)、米子高等経理学校(米子商業高校。現米子松蔭高校)浜田高等経理学校、益田高等経理学校(合併し益田商業高校。現明誠高等学校)などの学校を創設した。
<永島運一像>
竣工:1977年11月
像高:
作者:
撮影時:2024年8月22日
説明:出雲西高校(出雲市下古志町1163)、松江西高校(松江市上乃木3-21-10:寿像:1978年)、米子松陰高校(鳥取県米子市二本木316-1)にも像がある。出雲西高校以外は写真が撮れていない。
〇雪舟等楊 (1420~1506)
室町時代の画僧。禅僧。備中国赤浜(現岡山県総社市)生まれ。地元の宝福寺に入った後、京都相国寺で修行。周防国を経て1467年明へ渡り、李在より中国の水墨画を学ぶ。2年後に帰国し、周防、豊後、石見で創作活動をおこなう。さらに美濃や丹後などでの作品も残る。
<雪舟等楊像>
竣工:
像高:
作者:山名常人
撮影時:2024年8月22日
説明:逆光で見にくい上、大喜庵のあるところは市立雪舟の郷記念館の敷地内なのだが、記念館は現在耐震工事で閉館中。像のところに上がる道も草ぼうぼうで上がりにくかった。
なお、萬福寺(島根県益田市東町25ー33)にも胸像がある(下写真)。また岡山県の宝福寺(岡山県総社市井尻野1968)には、幼少時手が塞がれた状態で、涙で鼠を描く像がある。なお2000年に雪舟生誕地公園(岡山県総社市赤浜2025)にも像が作られている。山口県では像のある常栄寺(山口県山口市宮野下2001-1)は雪舟が作庭したとされる庭がある。香山公園(山口県山口市香山町7)にも像がある。
〇島田暉山(しまだきざん) (1918~2003)
政治家。第2代益田市長(3期)。益田市初の名誉市民。島根県議会議員(2期)。工業団地の誘致や赤十字病院、運動公園の整備に尽力した。
<島田暉山像>
場所: 益田運動公園駐車場前(益田市乙吉町)
竣工:1993年7月
像高:
作者:
撮影時:2024年8月22日
説明:寿像である。市制40周年を記念して作像した。目印は運動公園駐車場だが、実際像は道路の反対側、線路際にある。
〇山本利寿(やまもととしなが) (1896~1991)
政治家。衆議院議員(2期)・参議院議員(3期)。島根県邑智郡矢上生まれ。戦争中に軍務につき、戦後浜田市で進駐軍との通訳で活躍。その後議員として科学技術政務次官、法務政務次官を務めた。
<山本利寿像>
場所:矢上交流センター(島根県邑智郡邑南町矢上3835−4)
竣工:1975年3月
像高:
作者:中嶋文一郎?(文一郎のサインあり)
撮影時:2024年8月21日
説明:寿像である。三越が製作を請け負ったようである。
〇湯浅啓温(ゆあさひろはる) (1900~1953)
農学者。島根県邑智郡旭町(現島根県浜田市)生まれ。東京帝国大学農学部卒業後、農林省に入り、農作物の病害虫防除の研究をすすめた。のち日本応用昆虫学会会長となる。
<湯浅啓温像>
竣工:1993年11月
像高:
作者:倉沢実か?(実のサインあり)
撮影時:2024年8月21日
説明:おそらく出身地に像があるのだろう。山の中の「本郷」地区にある。このあたりは石州瓦で、屋根瓦は赤みを帯びている。
〇天津義晴 (1888~1969)
医師。島根県邑智郡吾郷村(現島根県邑智郡美郷町)生まれ。日本医科大学を卒業後地元で医師として活躍。また吾郷村村会議員、村長を歴任した。
<天津義晴像>
場所:乙原(島根県邑智郡美郷町乙原394−2)
竣工:1972年2月
像高:
作者:米治一
撮影時:2024年8月21日