〇對馬竹五郎 (1884~1971)
園芸家。政治家。青森県中津軽郡船沢村(現青森県弘前市)生まれ。日露戦争従軍後、リンゴ農家の外崎嘉七に弟子入りし、リンゴの栽培、品種改良、剪定などの研究を重ね、青森県はもとより岩手や秋田、長野などでリンゴの栽培指導をした。またスターキングやふじといった品種の普及にも尽力。戦後は青森県議会議員となり、リングの課税問題などに活躍した。
<對馬竹五郎像>
竣工:1957年11月
像高:
作者:古川武治
撮影時:2022年8月22日
説明:寿像ですね。公民館に車を入れて撮影したが、前を通る県道35号線は意外と交通量の多い道だった。すぐ脇には船沢中学校もあり、船沢地区の中心地であおる。また近くには国指定名勝「對馬氏庭園(瑞楽園)」もある。
〇桜錦利一(守弘) (1916~1962)
大相撲力士。青森県北津軽郡板柳町生まれ。本名加藤利一。出羽海部屋。最高位は西小結。小兵ながら鋭い出足からの引き技、蹴手繰りなどで幕内上位にいた。横綱双葉山からも金星を挙げている。引退後は年寄高崎を襲名。
<桜錦利一像>
竣工:1974年6月
像高:
作者:古川武治
撮影時:2022年8月22日
説明:神社は板柳町の中心地近くの小さな神社だが、整備されている。
〇唐糸御前
鎌倉時代、「北条時頼の廻国伝説」に登場する女性。北条時頼に愛されていた才色兼備の唐糸御前は、周囲の羨望と妬みから鎌倉を逃れ、生まれ故郷の津軽藤崎に隠れ暮らしていた。時頼は病を得て鎌倉幕府の執権を退いてから、諸国行脚の旅に出、津軽にも訪れる。唐糸御前は一瞬心ときめくも、見る影も無く落ちぶれた自らの姿を悲しみ、近くの池に身を投じ、その生涯を閉じる。その後時頼はこの地を訪れて、その死を知ると、唐糸御前の通っていた平等教院に墓を作ったという。この平等教院は弘前に移り「万蔵寺」となる。
<唐糸御前像>
場所:唐糸御前史跡公園(青森県南津軽郡藤崎町藤崎一本柳401)
竣工:1994年11月
像高:
作者:
撮影時:2022年8月22日
説明:江戸時代の弘前藩津軽氏は、その先祖に唐糸御前の子、炭焼藤太(藤原頼秀)を宛てている。公園の西側の「藤崎町斎場」が平等教院のあった場所とされる。
〇金光上人 (1154~1217)
鎌倉時代の浄土宗の僧侶。筑後国竹野郡竹野郷(現福岡県久留米市田主丸町)の生まれ。浄土宗(念仏)を東奥に広めた。1200年の事という。苦労の中、外ヶ浜に阿弥陀如来像を見つけ、それを背負って布教した。死に際しては浪岡町北中野に西光寺を作り、そこを墓としたという。
<金光上人像>
竣工:1990年12月
像高:
作者:
撮影時:2022年8月22日
説明:摂取院は、金光の開いた寺(金光が布教活動の拠点にした「藤崎法輪丘」の跡)とされる。江戸時代に同寺の住持心誉蓮池が寺を整備した。
〇千葉伝蔵 (1890~1962)
実業家、政治家。青森県東津軽郡荒川村(現青森県青森市)生まれ。白鳥鴻彰(政治家・教育者)の子。前名は白鳥覚郎。東京で学んだ後帰郷し、魚問屋千葉家の養子となる。青森市議会議員から青森市長(3期)となる。特に三内霊園の開設に尽力した。
<千葉伝蔵像>
場所:三内霊園(青森市三内沢部353)
竣工:1959年10月
像高:
作者:中野桂樹?
撮影時:2022年8月23日
説明:霊園をあがっていき、バス停から南に上がった丘の正面にいる。三内霊園には、青森出身の棟方志功・千哉子夫妻の墓がある。
〇山﨑健司 (?~?2012年には亡くなっているようだが…)
社会事業家、実業家。社会福祉法人健誠会を設立し、障害者支援施設月見野園を開設した(1975年)。
<山﨑健司像>
竣工:2012年7月
像高:
作者:
撮影時:2022年8月22日
説明:当初は把握していなかったが、写真を撮った順番だと木造駅から赤倉山神社への間なので、近くを通っていて見つけたようだ。その後で鰺ヶ沢に向かっている。