〇玉代姫と勝代姫
伝説上の姫。今から1300年ほど前(想定なら奈良時代だが、平安時代のことのようだ)、京の都にいた橘中納言通忠なる人が、世の無常をはかなみ、ここ小川原湖まで来て庵を構えた。都に残された玉代姫、勝代姫の姉妹は父を訪ねてここまで来たが、父は亡くなっていた。悲しみのあまり二人は湖に身を投げた。玉代姫の沈んだ湖を「姉沼」、勝代姫の沈んだ沼を「妹沼」(現在の小川原湖)と呼んだ。
<玉代姫と勝代姫像>
竣工:1989年
像高:
作者:
撮影時:2022年8月21日
説明:なんでも像ができるとき、2人の姫は服を着ている姿を想定していたのだが、完成像はご覧の通り、裸像であったとのこと。ちなみに、玉代姫は八甲田山の恵みを仰ぎ、勝代姫は湖上の安全を祈って向いているそうである。近くには、姉妹を祀るぞれぞれの明神様が祀られている。
〇松浪夏子 (1911~2001)
松浪病院理事。岐阜県の人。1971年に青森県浅所海岸に飛来するオオハクチョウの世話をする浅所小学校が、餌代に困っているという話を新聞で読み、餌代を送金、その後も定期的に送金を続けた。「白鳥おばさん」と呼ばれた。
<松浪夏子像>
竣工:1994年10月
像高:
作者:四津井工房
撮影時:2022年8月23日
説明:どうも当初は浅所小学校の校門前にあったが、2011年の小学校の廃校に伴い(現在は体育館が地区のものに、校舎は就労サポートセンターになっている)、畠山正光さん(白鳥おじさん)の脇に移築されたようだ。
〇畠山正光 (1904~2000)
秋田県仙北郡生まれ。元国鉄職員。1944年に小湊港の埠頭建設工事に従事(青函連絡船の桟橋不足を解消するため、この地に桟橋を作っていた)。ハクチョウの美しさに魅せられ、転勤の話があがった際に、なんと職を辞して観察を続け、1959年には餌付けに成功した。「白鳥おじさん」と呼ばれた。像の立つ場所の少し先に、餌付け場所がある。
<畠山正光像>
竣工:1997年5月
像高:約70㎝
作者:四津井工房
撮影時:2022年8月23日
説明:「日本白鳥の会」の会誌によると、胸像が立ったとき、畠山さんはまだご存命で、寿像であったことがわかる。募金により像ができたが、当初は勲章をつけた全身像の計画だったところを、本人の強い希望でアノラックに帽子を被り、双眼鏡をぶら下げた姿となったそうだ。台座にある銘「この仕事はボランティアですよ。誰の指図も受けないし、何年やってもクビにならないところがいい」はいい!
〇花鳥号
1876年の明治天皇の東北巡幸の際、行在所だった野辺地役場で亡くなった馬。
<花鳥号像>
竣工:1929年
像高:
作者:伊藤國男
撮影時:2022年8月21日
説明:馬の冥福を祈り、愛宕山公園の中腹に立てられたそう。町指定の有形文化財である。近くの常光寺には、「花鳥号碑」もある。作者の伊藤國男は、岩手県生まれで、生涯を通じて馬像の制作に取り組んだ人だそう。像の原型は宮内庁に保存されている。
〇泉山岩次郎 (1876~1963)
実業家、考古学者。明治後期に設立された泉山銀行の6代目、敷地内にあった是川遺跡(1920年から発掘。香炉形土器や赤漆が塗られた櫛など縄文晩期の亀ヶ岡文化圏の内容を示す随一の遺跡)の保存に当たる。
<泉山岩次郎像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2022年8月24日(レリーフ像は2010年8月25日)
説明:全く記憶が無かったが、是川縄文館に2022年行って、銅像撮ってきてるんだ…。
〇泉山斐次郎(いずみやまあやじろう) (1888~1982)
兄の岩次郎と共に泉山銀行を引き継いだ。是川遺跡の保存に尽力した。
<泉山斐次郎像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2022年8月24日(レリーフ像は2010年8月25日)
説明:二人は1961年に調査発掘した出土品約5000点を八戸市に寄贈した。ちなみに「是川縄文館」には、八戸市で発掘された「合掌土偶」(国宝:八戸市風張遺跡出土)が展示されている。