銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

東京 東大編 その5

東大編もとりあえず最終回。今回は駒場キャンパスです。

 

〇ジャン=バティスタ=アルチュール=アリヴェ  (1846~1902)

 フランス人。旧制一高でフランス語教育に貢献した。

 

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 <アリヴェ像>

場所:東京大学駒場キャンパス 駒場ファルカルティハウス中庭

竣工: 1902年(2004年に再建)

像高:

作者: 本山白雲

撮影時: 2019年1月4日

説明:1878年~旧制一高でドイツ語・ラテン語・哲学・世界史を教えた。大学紛争時に像の破壊を避けるために、一時長野に疎開をし、2004年に再建された。

 

〇フリードリッヒ=プッチール  (1851~1901)

ドイツ人。旧制一高でドイツ語教育に貢献した。没後1902年に向ヶ岡に像が立ち、のち駒場に移された。

 

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 <プッチール像>

場所: 東京大学駒場キャンパス 駒場ファルカルティハウス中庭

竣工: 1902年(2004年に再建)

像高:

作者: 大坂七太郎(沼田一雄が輔)

撮影時: 2019年1月4日

説明:1884年に来日し、ドイツ語・ラテン語・世界史を教えた。日本で亡くなったが、生前、日本は第二の故郷だと言っており、青山墓地に墓がある。アリヴェ像と同様に、大学紛争時に像の破壊を避けるために、一時長野に疎開をし、2004年に再建された。

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東京 東大編 その4

〇隈川宗雄  (1858<安政元>年~1918<大正7>年)

 福島藩医原有隣の子。1869年に隈川宗悦(眼科医。東京慈恵医大付属病院を創設)の養子となる。東大医学部卒。ベルリン留学後、母校の教授となり、医科学(生化学の一部)を担当。1917年東京帝大医科大学学長となる。 

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<隈川宗雄像>

場所:医学部2号館と医学図書館の間

竣工: 制作年不詳

像高:

作者: 朝倉文夫

撮影時: 2019年1月14日

説明:台座にはニワトリの彫刻があるが、これは「ニワトリが先かタマゴが先か」の因果律のジレンマを表わすもので、生化学の持つ問題点(医学なのか生物なのか)と重なるものらしい。

 

 

ヨハネス=ルードリッヒ=ヤンソン  (1849<嘉永2>年~1914<大正3>年)

 ドイツの獣医学者。1880<明治13>年に来日、駒場農学校で解剖学・寄生虫学などを講義し、本に西洋式獣医学を導入した功労者。東京帝国大学退官後は、盛岡や鹿児島で指導に当たった。日本人と結婚し、妻の故郷鹿児島で没し、墓所も同地にある。 

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 <ヨハネス=ルードリッヒ=ヤンソン像>

場所:弥生キャンパスの動物医療センター前

竣工: 1902<明治35>年

像高:

作者: 大熊氏廣

撮影時: 2014年1月14日

説明:もともとは駒場農学校(現東大駒場キャンパス)にあったが、弥生キャンパスの農学部3号館2Fに移された(1935年ごろか?)。さらに2014年に現在地に移った。駒場農学校で教えるとともに、鹿鳴館で日本人に本格的な西洋式ダンスを指導したことでも知られる。

 

 

〇上野英三郎  (1872<明治4>年~1925<大正14>年)

 農業土木学者。東京帝国大学教授。三重県出身。読み方は「うえのひでさぶろう」。明治政府の耕地整理事業の技術指導や農業土木の指導者育成に尽力した。渋谷駅の近くに住み、ハチ公を飼っていたことでも有名。 

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 <上野英三郎像>

場所:弥生キャンパス農学資料館内

竣工: 1930年

像高:

作者: 北村正信(『博士の肖像』内「東京大学所蔵肖像画・肖像彫刻」によると、北□□作と書かれていて、作者不詳とあるが、3文字目が「正」なので、北村正信と推測しました)

撮影時: 2019年1月14日

説明:弥生キャンパスの農学資料館内にいます(農学部正門入って左側)。ここには

ハチ公の臓器のホルマリン漬が展示されています(ハチ公の剥製は上野の国立科学博物館にいます)。ちなみにハチ公の墓は青山墓地の上野先生の墓の脇になります。

 

〇上野英三郎とハチ公

 ちなみにハチ公 (1923<大正12>年~1935<昭和10>年) 

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 <上野英三郎とハチ公像>

場所:弥生キャンパス正門入って左側。

竣工: 2015年3月8日

像高:

作者: 植田努

撮影時:

説明:竣工日は、ハチ公の没後80年の節目の日。何でも、ハチ公は有名でも飼い主の上野博士が東大教授だったことが知られておらず、それを憂えた有志が立てたそうです。

大の犬好きだった上野博士がハチ公を飼ったのは、1924<大正13>年のこと。しかし翌年に博士は講義中に脳溢血で死去、ハチ公は、一度は親戚の家を転々とするが、教え子の行為で未亡人ともども世田谷区の弦巻に住むこととなる。どうもそこから渋谷駅まで通っていたよう。

作者の植田努は動物彫刻の第一人者。躍動感のあるハチ公の姿は、飼い主に会った喜びにあふれている。また鞄などの描写も緻密で素晴らしい。

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同じように上野博士とハチ公像は、博士の出身の三重県津市久居の近鉄久居駅北口にもある(2012年竣工)。

東京 東大編 その3

〇佐藤三吉 (1857<安政4>年~1943<昭和18>年)

 美濃国(現岐阜県)大垣出身の外科医、医学博士。大学南校で学び、1883年ベルリン大学に留学、帰国後東京帝国大教授、医学部付属病院長、初代日本外科学会長、貴族院議員などを歴任した。 

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<佐藤三吉像>

場所:医学部付属病院前

竣工: 1924年

像高:

作者: 水谷鉄也

撮影時:  2019年1月14日

説明:青山胤通像と並んで立つ。台座には手術中の姿が彫られている。出身の岐阜で1891年に濃尾地震が起こると、被災地へ赴いて被災者の手当てに当たった。ボランティアのはしりであろう。 

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〇ユリウス=カール=スクリバ  (1848<嘉永元>年~1905<明治38>年)

 ドイツの外科医。1881年~東大で外科、皮膚科、眼科、婦人科を教えたお雇い外国人。契約満了で一度ドイツに戻るも契約延長により再来日、1901年の退職後は聖路加病院の外科主任などを務めた。日本人妻をめとり、1905年日本で亡くなった(墓所青山墓地)。 

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<ユリウス=カール=スクリバ像>

場所: 御殿下グラウンド脇(健康と医学の博物館前庭の隣)

竣工: 1907年4月4日

像高:

作者: 長岡守敬

撮影時:  2019年1月14日

説明:台座を備え、立派な光背付きの像で、ベルツ像と並んで立つ(向かって右がスクリバ)。当初は医学図書館(医学部総合中央館)の建っているところにあった(1961年11月に移転)。スクリバは、日清戦争講和条約下関条約締結のため来日した清国の李鴻章負傷事件、ロシアの皇太子ニコライが負傷した大津事件などで、現地で活躍した。

  

〇エルヴィン=フォン=ベルツ (1849<嘉永2>年~1913<大正2>年)

 ドイツの医師。1876年にお雇い外国人として東京医学校(現東京大学医学部)で内科、産婦人科を教える。日本人戸田花子と結婚、1902年に退官後は宮内省侍医を務めた。1905年帰国。 

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<エルヴィン=フォン=ベルツ像>

場所: 御殿下グラウンド脇(健康と医学の博物館前庭の隣)

竣工: 1907年4月4日

像高:

作者: 長岡守敬

撮影時:  2019年1月14日

説明:『ベルツの日記』で有名。この本から、当時の西洋人の観た日本の様子がよくわかる。また草津温泉を再発見し、世界に紹介した人物としても有名。草津温泉にはベルツ記念館があり、西の河原には、東大の胸像をコピーしたベルツ像、スクリバ像が並んで立つ。また伊香保温泉には、一番奥の源泉付近(源泉湧出口観覧所)に「若き日のベルツ博士」像が立っている。 

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〇レオポルト=ミュルレル (1824<文政7>年~1893<明治26>年)

 正式にはベンヤミン=カール=レオポルト=ミュルレル。ドイツの陸軍軍医。外科医。1871年に来日し、お雇い外国人として大学東校で、解剖学・婦人科・眼科を担当した。また医師と独立した薬剤師の必要性を説き、製薬学科を設立した。1875年の退官後しばらく宮内省侍医を務め、1876年に帰国した。 

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<レオポルト=ミュルレル像>

場所: 薬学部東方の木立の中

竣工: 1895年

像高:

作者: 藤田文蔵

撮影時: 2019年1月14日

説明:ピッケルハウベ(プロイセンを中心としたドイツの軍隊、消防、警察などで用いられた頭頂部にスパイク状の頭立のついたヘルメット)をかぶる軍服姿の像。なかなか怖い表情の威厳のある像である。上記のように1895年に教え子たちにより三回忌に立てられたが、第二次世界大戦の金属供出でコンクリート製の複製が造られたが、供出されずに終戦を迎えた。しかし1959年に像は何者かに盗まれてしまった。1964年にコンクリート像に彩色して設置したが、1975年に改めてブロンズ像が造られた。

 

〇下山順一郎 (1853<嘉永6>年~1912<明治45>年)

 薬学者。尾張国(現愛知県)犬山生まれ。大学南校に入り、製薬を学び、薬学博士の第一号となる。帝国大学医科大学の生薬学教授となり、私立薬学校(現東京薬科大)の初代校長となる。私財を投じて薬草園を開設するなど、薬用植物の研究や栽培に努力した。 

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<下山順一郎像>

場所: 薬学系総合研究棟脇

竣工: 1915年

像高:

作者: 武石弘三郎

撮影時: 2019年1月14日

説明:本像以外に、東京薬科大学正面玄関内、愛知県犬山城入り口横に胸像がある。