銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

東京 東大編 その4

〇隈川宗雄  (1858<安政元>年~1918<大正7>年)

 福島藩医原有隣の子。1869年に隈川宗悦(眼科医。東京慈恵医大付属病院を創設)の養子となる。東大医学部卒。ベルリン留学後、母校の教授となり、医科学(生化学の一部)を担当。1917年東京帝大医科大学学長となる。 

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<隈川宗雄像>

場所:医学部2号館と医学図書館の間

竣工: 制作年不詳

像高:

作者: 朝倉文夫

撮影時: 2019年1月14日

説明:台座にはニワトリの彫刻があるが、これは「ニワトリが先かタマゴが先か」の因果律のジレンマを表わすもので、生化学の持つ問題点(医学なのか生物なのか)と重なるものらしい。

 

 

ヨハネス=ルードリッヒ=ヤンソン  (1849<嘉永2>年~1914<大正3>年)

 ドイツの獣医学者。1880<明治13>年に来日、駒場農学校で解剖学・寄生虫学などを講義し、本に西洋式獣医学を導入した功労者。東京帝国大学退官後は、盛岡や鹿児島で指導に当たった。日本人と結婚し、妻の故郷鹿児島で没し、墓所も同地にある。 

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 <ヨハネス=ルードリッヒ=ヤンソン像>

場所:弥生キャンパスの動物医療センター前

竣工: 1902<明治35>年

像高:

作者: 大熊氏廣

撮影時: 2014年1月14日

説明:もともとは駒場農学校(現東大駒場キャンパス)にあったが、弥生キャンパスの農学部3号館2Fに移された(1935年ごろか?)。さらに2014年に現在地に移った。駒場農学校で教えるとともに、鹿鳴館で日本人に本格的な西洋式ダンスを指導したことでも知られる。

 

 

〇上野英三郎  (1872<明治4>年~1925<大正14>年)

 農業土木学者。東京帝国大学教授。三重県出身。読み方は「うえのひでさぶろう」。明治政府の耕地整理事業の技術指導や農業土木の指導者育成に尽力した。渋谷駅の近くに住み、ハチ公を飼っていたことでも有名。 

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 <上野英三郎像>

場所:弥生キャンパス農学資料館内

竣工: 1930年

像高:

作者: 北村正信(『博士の肖像』内「東京大学所蔵肖像画・肖像彫刻」によると、北□□作と書かれていて、作者不詳とあるが、3文字目が「正」なので、北村正信と推測しました)

撮影時: 2019年1月14日

説明:弥生キャンパスの農学資料館内にいます(農学部正門入って左側)。ここには

ハチ公の臓器のホルマリン漬が展示されています(ハチ公の剥製は上野の国立科学博物館にいます)。ちなみにハチ公の墓は青山墓地の上野先生の墓の脇になります。

 

〇上野英三郎とハチ公

 ちなみにハチ公 (1923<大正12>年~1935<昭和10>年) 

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 <上野英三郎とハチ公像>

場所:弥生キャンパス正門入って左側。

竣工: 2015年3月8日

像高:

作者: 植田努

撮影時:

説明:竣工日は、ハチ公の没後80年の節目の日。何でも、ハチ公は有名でも飼い主の上野博士が東大教授だったことが知られておらず、それを憂えた有志が立てたそうです。

大の犬好きだった上野博士がハチ公を飼ったのは、1924<大正13>年のこと。しかし翌年に博士は講義中に脳溢血で死去、ハチ公は、一度は親戚の家を転々とするが、教え子の行為で未亡人ともども世田谷区の弦巻に住むこととなる。どうもそこから渋谷駅まで通っていたよう。

作者の植田努は動物彫刻の第一人者。躍動感のあるハチ公の姿は、飼い主に会った喜びにあふれている。また鞄などの描写も緻密で素晴らしい。

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同じように上野博士とハチ公像は、博士の出身の三重県津市久居の近鉄久居駅北口にもある(2012年竣工)。