銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

鹿児島県編  その19

西郷隆盛  鹿児島市内には、多くの西郷隆盛像があるが、西郷公園の菅実秀との対談像を除いて、ここで一括に紹介する。

 

 

①場所:鹿児島市美術館前(鹿児島県鹿児島市城山町4-36)

竣工:1937年5月

像高:5.76m

作者:安藤照

撮影時:2020年3月22日  

説明:東京上野公園とは違って、軍服姿の像。背景は西郷が西南戦争時に自刃した城山である。作者は東京渋谷の「ハチ公」像の安藤照。鹿児島市の出身である。国道10号線をはさんで反対側には、この像の撮影広場がある。イヌのFRP像があり、イヌを入れての記念撮影ができるという。

 

②場所:南洲神社(鹿児島県鹿児島市上竜尾町2-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日 

説明:南洲神社の拝殿の中にいます。コンクリート像の犬を連れた像も…。この像は客人が来た時の正装だそう。南洲神社の南には、西南戦争で亡くなった方々の埋葬された「南洲墓地」がある(もちろん、西郷隆盛の墓も)。

 

③場所:西郷洞窟前(鹿児島県鹿児島市城山町19)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2020年3月23日 

説明:この像はおそらくFRP像である。西郷洞窟(西南戦争の最後の5日間、城山に立て籠もっていた西郷が過ごした洞窟と伝えられている)のすぐ上の「せごどん本店」が作ったものと思われる。

④場所:城山長寿泉前(鹿児島県鹿児島市城山町20)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2020年3月23日 

説明:③の「せごどん本店」の道路反対側にある、公衆浴場「城山長寿泉」のところにある像。「西郷隆盛没後百周年」の銘がついている。

 

小松帯刀 (1835~1870)以下略

小松帯刀像>

場所:宝山ホール(県文化センター)(鹿児島県鹿児島市山下町5-3)

竣工:1993年10月

像高:

作者:西俣敏弘

撮影時:2020年3月22日  

説明:夜はライトアップされる。右手に筆、左手に紙を持っているが、これは1867年10月に、将軍徳川慶喜が、諸大名に大政奉還の是非を問うたとき、小松がいち早く「すべし」と記帳したイメージなのだそう。顔の向いている方向に照国神社があり、薩摩の三公(島津斉彬島津久光島津忠義)を意識しているのだという。

 

天璋院篤姫 (1836~1883)以下略

天璋院篤姫像>

場所:鹿児島県歴史資料センター黎明館(旧鶴丸城址)(鹿児島県鹿児島市城山町7-2)

竣工:2010年12月

像高:

作者:中村晋也

撮影時:2020年3月22日 

説明:銅像の後ろの屏風には「一命にかけ是非是非御頼申候事に候」とあり、13代徳川家定に嫁いだ篤姫が、西郷隆盛に婚家の徳川家の存続を願って出した嘆願書の一文が記されている。像を作るために中村氏は、生前の姿の資料を多く集め、晩年の写真で着ている「道服」をイメージし、服は少し硬い感じで表現したとのこと。

 

 

〇平田靫負(ひらたゆきえ) (1704~1755)

 江戸時代中期の薩摩藩の家老。1753年、薩摩藩は幕府の「御手伝普請」で、毎年氾濫していた木曽三川の分流工事を命じられた。工事費用は全額薩摩藩持ち、専門職人は一切雇ってはならない、という弾圧政策であった(幕府は薩摩藩琉球貿易による財力を恐れたという)。平田はこれのすべて責任を負って引き受け、1年3か月で成功させたが、その後死去したという(多額の費用を使ったことから自害の説もある)。

<平田靫負像>

場所:平田公園(鹿児島県鹿児島市平之町6)

竣工:1954年5月

像高:

作者: 安藤士

撮影時:2020年3月22日

説明:この地は、平田の屋敷があったところ。ここ以外に、鹿児島県建設センター(鹿児島市鴨池新町10-1)にも像があるが、時間の関係で撮れなかった。また工事をおこなった岐阜県海津市の平田公園(岐阜県海津市平田町三郷2330)と同じ岐阜県養老郡養老町の大巻薩摩工事役館跡(岐阜県養老郡養老町大巻47)にも平田の像がある。鹿児島の像は、東京渋谷のハチ公像の作者、安藤照の息子、安藤士(あんどうたけし)の作である(ちなみに今のハチ公像は、安藤照ではなく安藤士の像である)。

 

  (岐阜県の平田公園)           (岐阜県の大巻薩摩役館跡)

(同様に岐阜県大巻薩摩役館跡)