銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

鹿児島県編  その20

島津斉彬 (1809~1858)

 江戸時代の大名。第11代薩摩藩主江戸薩摩藩邸で生まれる。薩摩藩の富国強兵、殖産興業に着手した幕末の名君と言える。若くして洋学に興味を持ち、それを「蘭癖」と見なされ、なかなか藩主になれず、調所広郷や父島津斉興の側室お由羅らが、久光の擁立を画策した(お由羅騒動)。その結果やっと藩主となった。その後は集成館事業による富国強兵、殖産興業、また有能な下級藩士の登用(西郷隆盛大久保利通など)などの藩政改革をおこなった。幕府の継嗣問題では、徳川慶喜を推し、徳川慶福を推した井伊直弼を対立、直弼が強権を発動して慶福を将軍にし、安政の大獄を起こすと、兵を率いて上洛を計画したが、その直後に病死した。

島津斉彬像>

場所:照国神社(鹿児島県鹿児島市照国町19-35)

竣工:1917年

像高:

作者:朝倉文夫

撮影時: 2020年3月22日

説明:

 

島津久光 (1817~1887)

 江戸末期から明治初期の大名、華族薩摩国鹿児島城下で生まれる。島津斉興の五男。元服時の名は忠教(ただゆき)。兄弟で争ったお由羅騒動では斉彬の対立派だったが、本人は担ぎ出された要素が強く、事件後も斉彬との関係は良好だった。兄が亡くなった後、実施の忠徳が藩主に就任し(当初は茂久のち忠義)、藩主の実父として藩内の性的影響力が増大し、「国父」の礼を持って遇されるようになった。中下級藩士の「精中組」を登用するが、リーダー格の西郷隆盛とは生涯ウマが合わず、遠島処分などにした。

1862年には上洛し、朝廷の大原重徳を勅使にして江戸に入り、「文久の改革」をおこなった。その帰路では、「生麦事件」を起こしている。明治維新後は、政治の主導権を握ることはできなかった。

島津久光像>

場所:照国神社(鹿児島県鹿児島市照国町19-35)

竣工: 1917年

像高:

作者: 朝倉文夫

撮影時:2020年3月22日  

説明:照国神社の右側にある、「探勝園」内にある。

 

〇島津重義 (1840~1897)

 幕末の薩摩藩主。王政復古の大号令時の小御所会議に出席、明治維新後は、版籍奉還廃藩置県に従う。西南戦争時も東京にいて、事件には関わらなかった。

<島津重義像>

場所:照国神社(鹿児島県鹿児島市照国町19-35)

竣工:1917年

像高:

作者:朝倉文夫

撮影時:2020年3月22日

説明:照国神社の右側にある、「探勝園」内にある。この像は第二次大戦時に金属供出され、戦後再建されたものである。

 

フランシスコ・ザビエル

 略

フランシスコ・ザビエル像>

場所:ザビエル公園(鹿児島県鹿児島市東千石町4)

竣工:1949年8月

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:この地は、明治時代に日本発の仏和辞典を作成したラゲ神父が、ザビエルの功績をたたえて作ったザビエル教会の跡地。第二次世界大戦で焼失したが、その旧聖堂の一部を残して「ザビエル公園」となった。さらに1949年にはザビエル渡日400年を祝して、隣接地に「ザビエル教会」が再建され、公園内には、1999年に溝口守一氏により、ザビエル、ヤジロウ、ベルナルドの等身大像も制作された。

(ザビエル教会のザビエル像:2007年イタリアより寄贈)

 

〇保直次(たもつなおじ) (1916~2012)

 実業家。鹿児島県大島郡亀津村(現徳之島町井之川)生まれ。戦後鹿児島市にスーパーを開業し、その後城山観光ホテル(現城山ホテル鹿児島)を設立した。

<保直次像>

場所:城山ホテル鹿児島(鹿児島県鹿児島市新照院町41-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2020年3月23日

説明:城山ホテル鹿児島に滞在し、朝食ビュフェを食べながら桜島を見ていたら、そこのテラスにこの像があった。伸ばしている右手の先が桜島である。「夢を見、夢を追い、夢を喰う」は、保氏の信念。