銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

鹿児島県編   その7

〇神村勲 (1931~2019)

 教育者。学校法人神村学園創設者、理事長。24歳で串木野経理専門学校を創設し、その後名称は串木野高等商業学校、串木野商業女子高校、串木野女子高校を経て、神村学園高校となる。女子ソフトボール女子サッカー、男子サッカー、男子野球、駅伝などスポーツの名門となっている。

<神村勲像>

場所:神村学園(鹿児島県いちき串木野市別府4460)

竣工:2015年11月

像高:

作者:

撮影時:2020年3月21日

説明:学園創立60周年記念事業として立てられた。なのでその時点では寿像である。脇に坐る奥様は「神村妙子」(1932~?)。国道沿いの構内にあるが、大きいので通りからもよく見える。2006年には学校そばに、JR鹿児島本線の「神村学園前駅」ができた。

 

○長谷部純孝 (1854~1914)

 政治家。薩摩国日置郡串木野村(現いちき串木野市)生まれ。鹿児島藩郷士の家に生まれ、明治維新後に上京して警官となる。西南戦争西郷隆盛方として出兵して捕まる。出獄後は自由民権運動に加わり、鹿児島県会議員を経て、衆議院議員を11期務める。その間に衆議院議長、文部大臣(第2次西園寺内閣)となる。2度目の衆議院議長となるが急死した。

<長谷場純孝像>

場所:串木野駅(鹿児島県いちき串木野市曙町95)

竣工:1960年4月

像高:

作者:

撮影時:2020年3月21日

説明:鉄道国有化と鹿児島本線敷設に貢献して、出身の串木野駅前に胸像ができた。脇には、8620型蒸気機関車の動輪と先頭部分が置かれている。どうも銅像の掃除をしたようで、ピカピカである。

 

〇ゴンザ(権左?) (1718~1739)

 薩摩国日置郡出身の漁師、ロシアの日本語教師。1728年に藩の蔵米を大坂に運ぶ途中に遭難し、ロシア領カムチャッカに漂着、ゴンザとソーザ以外の15人が亡くなった。その後助けられてモスクワに送られ、アンナ・ヨアノヴァナ女帝と謁見した。若くしてロシアに流れ着いたため、ロシア語に堪能になっていたため、女帝は彼を勅命で日本語教師とした。そこで露和辞典である「新スラブ・日本語辞典」などを編纂したが、21歳の若さで亡くなった。

<ゴンザ像>

場所:羽島崎神社(鹿児島県いちき串木野市羽島5944)

竣工:2011年11月

像高:

作者:

撮影時:2020年3月21日

説明:石像である。羽島崎神社には、「ゴンザ神社」という摂社がある。その語学力から、「学問の神」として信仰されてる。ゴンザの存在も、2010年に鹿児島方言を研究する人(種子田幸広氏)の努力で日の目を見た。残された「露日辞典」は、薩摩方言の日本語であり、その単語の訛りの分布からこの羽島を特定したのだ。氏がロシアを訪れた際には、ゴンザの墓所も特定し、そこの石をゴンザの御霊として持ち帰り、羽島崎神社に奉納したのが、「ゴンザ神社」である。像のモデルは、サンクトペテルブルクの「クンストカメラ」(ロシア科学アカデミーの博物館)に残された首像。ただし、当地ではゴンザ像ではなく、「モンゴロイド系の人のモデル」と断言されたらしい。

 

○フランシスコ=ザビエル (1506?~1552)

 スペインのナバラ王国生まれのカトリックの司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの一人。バスク人。1549年に来日し、キリスト教の宣教をした。

<フランシスコ=ザビエル像>

場所:市来鶴丸城址(鹿児島県日置市東市来町長里360)

竣工:2008年4月

像高:

作者:池川直

撮影時:2020年3月21日

説明:この地は、ザビエルが市来鶴丸城の家老ミゲル(洗礼名のみ伝わる)の案内で

城を訪れ、城主の新納康久から城内で布教を許され、泰久の夫人などが洗礼を受けたことから。像は城址の入り口付近に立つ。その少し下には大変小さいが、ザビエルと家老ミゲルの像もある(2008年4月建立)。また一宇城址(鹿児島県日置市伊集院町大田)の駐車場にもザビエルの石像が立つ。

 

   (ザビエルとミゲル像)       (一宇城址のザビエル像)

〇東郷重徳 (1882~1950)

 政治家、外交官。鹿児島県日置郡苗代川村(現日置市東市来町)生まれ。生まれは「朴重徳」と言い、先祖は豊臣秀吉朝鮮侵略で朝鮮から連行された朝鮮人陶工。江戸時代を通して、薩摩藩は朝鮮の風俗を保持することなどを命じ、藩から「郷士」の下の地位と位置付けられた。明治期の壬申戸籍で「平民」とされたことが不満で、「東郷家」の家督を買って、「東郷重徳」となった。東大に入りドイツ文学科を卒業、外務省に入省し、駐独大使となる。その後駐ソ大使として、日ソ中立条約を調印、1941年には外務大臣となり、対米参戦を回避するべく活動するが、「ハル・ノート」を提示され、太平洋戦争となった。終戦時の鈴木貫太郎内閣で再度外務大臣となり、終戦交渉をした。戦後A級戦犯として、極東国際軍事裁判にかけられ、禁固20年の判決を下される。

<東郷重徳像>

場所:元外相東郷重徳記念館(鹿児島県日置市東市来町美山1690-4)

竣工:1998年4月

像高:

作者:原田茂

撮影時:2020年3月21日

説明:記念館の地は、東郷の生誕地。

 

島津義弘 (1535~1619)

 戦国期から安土桃山時代にかけての武将、大名。戦国大名島津義久の弟。島津氏の九州侵攻で活躍し、豊臣秀吉の九州平定軍とも戦い、敗北するがその後は秀吉に仕え、朝鮮侵略にも従軍する。関ケ原の戦いでは、西軍として戦い、退路を断たれ孤立する中、東軍に突っ込んで脱出したという。島津氏第17代とされるが、異論も多い。

島津義弘像>

場所:JR伊集院駅前(鹿児島県日置市伊集院町徳重)

竣工:1988年10月

像高:

作者:中村晋也

撮影時:2020年3月21日

説明:像は、関ケ原の戦いで敵中突破をする瞬間をイメージしたものとされる。

(顔が見えない…)