銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

鹿児島県編  その16

今日は、2010年に鹿児島市が「偉人たちをより身近に感じ、新しい視点で楽しめる“まち歩きガイド”」として設置した、「時標(ときしるべ)」である。全部で7か所に設置されていて、人と場所、出来事を結び付けて紹介しているところがミソ。また銅像群の脇に立つ解説板内には、QRコードが用意されていて、スマホをかざすと、そのシーンの人物や物語についてのイラストムービーが流れる仕組みになっている(当初は「覗きメガネ」方式だったようだ。私の画像にもQRコードはついていないので、この2年間で設置されたようだ)。こうした取り組みは、新しい銅像の在り方かもしれない。少し特別なので、人物よりも事件に焦点を絞って書いて見ます。では、その7か所をご紹介!                                   

 

  

 

〇「イギリス艦、鹿児島湾に現る」(1863)

 前年に起こった生麦事件を受けて、イギリスが賠償を求めるために鹿児島湾に現れたが、その知らせを受けた大山巌西郷従道山本権兵衛が港へ向かった状況を表している。

<「イギリス艦、鹿児島湾に現る」像>

場所:加治屋町交差点(鹿児島県鹿児島市西千石町10-1)

竣工:2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日  

説明:このとき、大山巌は21歳(1842~1916:陸軍軍人)、西郷従道は20歳(1843~1902:陸、海軍軍人。西郷隆盛の弟)、山本権兵衛は9歳(1852~1933:海軍軍人。総理大臣)。画面左から大山巌西郷従道山本権兵衛である。

 

〇「樺山、黒田、大いに語る」(1858)

 1858年は日米修好通商条約調印、それに先立って徳川将軍家の継嗣問題で幕政が揺れていた時期。樺山資紀黒田清隆ら、薩摩藩の若者も日本の将来について語り合う様子を表している。

<「樺山、黒田、大いに語る」像>

場所:高見馬場交差点(鹿児島県鹿児島市西千石町17-3)

竣工:2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:このとき、樺山資紀は21歳(1837~1922:海軍軍人)、黒田清隆は18歳(1840~1900:陸軍軍人、総理大臣)。明治政府でも活躍した二人であった。左が樺山、右は黒田である。

 

 

〇「黒田清輝桜島の噴火を描く」(1914)

 この年、たまたま鹿児島に滞在していた黒田清輝(このとき47歳。1866~1924)は、桜島の大噴火に遭遇(大正大噴火。1月12日に発生し、9月ごろまで続いた。この噴火で桜島大隅半島と陸続きになった。また夕方遅くにM7程度の「桜島地震」が起こった)。その様子を主題に絵を描いた。作品は、鹿児島市美術館に収蔵されている。

<「黒田清輝桜島の噴火を描く」像>

場所:商工会議所ビル前(鹿児島県鹿児島市東千石町1-38)

竣工:2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:他の作品に比べると、断然と新しい時期の像。「時標」が「維新期」にこだわっているわけではないのでありうるわけだが、「桜島の大正噴火」と「黒田清輝」を入れ込みたいと思ったのだろう。左が黒田、右が弟子。ちなみに弟子は、山下兼秀(1882~1939。このとき33歳)。鹿児島市生まれで、黒田の弟子だったが、この頃は黒田の元を離れ、地元百貨店の山形屋の宣伝課長だった。噴火後の桜島を観察し、多くの作品を残している。

(山下兼秀「桜島爆発図」鹿児島市美術館蔵。Wikipediaより転載)

 

〇「龍馬、お龍と薩摩でひと休み」(1866)

 土佐出身の坂本龍馬が、伏見寺田屋での襲撃事件で手を負傷した後、その療養もかねて、この事件で龍馬を救ってくれたお龍と、薩摩で「新婚旅行」をしたことは有名。このサイトでも、すでに「塩浸温泉」の2人の像を紹介している。2人に薩摩での療養を勧めた小松帯刀の別邸(鹿児島市原良4丁目)に滞在していた。

<「龍馬、お龍と薩摩でひと休み」像>

場所:いづろ交差点(鹿児島県鹿児島市大黒町1-3)

竣工:2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:薩摩出身ではないが、「薩長同盟」や「大政奉還」に関わった坂本龍馬は外せないのだろう(最近、そんなに活躍していなかったとの説があるが…。司馬遼太郎の力で有名になったよう)。でもなんで「いづろ」なんだろう?

 

〇「重豪、薩摩の科学技術の礎を築く」(1779)

 島津重豪は第8代薩摩藩主(このとき34歳。1745~1833)。1758年に藩主となるが、実権を握るのは1763年。藩政改革に取り組み、藩校造士館の設立などをする一方、蘭学へも多大なる興味を持ち、1773年に明時館(のちの天文館)や医学院などを設立した。曾孫の島津斉彬はこの才能を引き継いだと言えよう。

<「重豪、薩摩の科学技術の礎を築く」像>

場所:天文館アーケード内<天文館跡地>(鹿児島県鹿児島市東千石町15-4)

竣工:2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:ちなみに脇に坐るのは、家臣の水間良実(みずまよしざね:?~1795)。暦学を学び、身分は低いが、「初代御暦者」に任命された。

 

〇「伊地知、吉井、政変について語る」(1860)

 1860年桜田門外の変が起き、幕政が揺らいだ時期。二人は伊地知正治(いじちまさはる。このとき32歳。戊辰戦争で活躍し、維新後は参議:1828~1886)と吉井友実(よしいともざね。このとき32歳。維新後は官僚。1828~1891)。この頃の薩摩藩は、島津斉彬の急死を受けて混乱が生じていたが、島津久光がリーダーシップをとって、幕政に介入し始めたころだ。

<「伊地知、吉井、政変について語る」像>

場所:中央公園(鹿児島県鹿児島市山下町4)

竣工:2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:中央公園は、照国神社島津斉彬を祭神として1864年に竣工)の前にあり、もう少し北に上がると鶴丸城址もある、薩摩藩城下町、鹿児島の中心部。

 

〇「ウィルス、高木に西洋医学を説く」(1869)

 7つ目のモニュメントは、ウィリアム・ウィルス(このとき32歳。1837~1894)が、鹿児島に招かれ、鹿児島医学校、鹿児島医学校病院(赤倉病院)を創設するとき。ウィルスは、駐日英公使館の医師として来日し、第2次東禅寺事件、、生麦事件などにも関わり、鳥羽・伏見の戦いの負傷者の治療や西郷従道の治療にあたる。徳川慶喜明治天皇にも謁見した。鹿児島に来訪後は、そのまま居ついて日本人女性と結婚している。高木兼寛(前出。海軍軍医。このとき20歳。1849~1920)は、ウィルスの門下生。

<「ウィルス、高木に西洋医学を説く」像>

場所:県民交流センター前(鹿児島県鹿児島市山下町14)

竣工: 2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:「城山入口交差点」のところで、背後には鶴丸城址に立つ「鹿児島県歴史・美術センター黎明館」がある。近くには「鹿児島医療センター」も建つ。高木兼寛を使うのは、日露戦争の時の「脚気」に対する陸・海軍の差を示したのだろうか?