銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

宮崎県編  その3

三島通庸 (1835~1888)

 明治期の内務官僚。薩摩国鹿児島郡武村(現鹿児島県鹿児島市)生まれ。幼名は弥兵衛。第一次長州征討、戊辰戦争に活躍し、明治維新後は東京府に入る。内務省ができると、鶴岡(酒田)、山形県令、福島県令(このときに福島事件起こる)、栃木県令(このときに加波山事件起こる)を歴任する。山形県令時代から道路事業を多く遂行し、「土木県令」のあだ名が起こる。福島県令時代も「会津三方道路」を計画し、自由党との軋轢を深めた(福島事件の原因の一つ)。ただ公共事業の推進は、明治初期の各地方にとって有意義だったと思われる(山形の済世館病院や福島の安積疎水など)。その後警視総監となる(このときに保安条例)。

三島通庸像>

場所:三股小学校(宮崎県北諸県郡三股町樺山4490)

竣工:

像高:

作者:平原孝明

撮影時:2022年3月29日

説明:三島は、明治政府に出仕する前の1869年から1871年まで日向都城地頭としてこの地に入り、三股の発展に寄与した(道路整備、母智丘神社の整備、学校の創設など)。学校で教えていると、「福島事件」のパワハラ県令なのだが、地元での人気が上々のようだ。

 

〇野崎重則 (1859~?)

 政治家。三股村初代村長。学校の整備や日豊本線三股駅の誘致などに尽力した。

<野崎重則像>

場所:三股町役場(宮崎県北諸県郡三股町五本松1-1)

竣工:1968年11月

像高:

作者:平原孝明

撮影時:2022年3月29日

説明:色々調べているとネット上に町議会議事録など出てくるが、三股町では、野崎氏のような地域の偉人の顕彰を求め、教育などに生かすように訴える議員などがいて、面白かった。

 

〇水久保甚作 (1884~1973)

 昭和期の政治家。宮崎県都城市生まれ。都城で税務署に勤め、税理代理士から都城市会議員を経て、戦前に衆議院議員(2期)、戦後に参議院議員(1期)。

<水久保甚作像>

場所:神柱公園(宮崎県都城市前田町1330-1)

竣工:1980年5月

像高:

作者:平原孝明

撮影時:2022年3月29日

説明:銅像の台座を見ると、農業系の貢献が高かったようで、そうした人々が胸像建設委員会のメンバーに入っていることがわかる。

 

〇新時金之助 (1863~1934)

 農政家。日向国諸県郡出身。明治から昭和初期に、漆野原の開拓を企図し、漆野原用水路を開き、地域の開拓に成功した。

<新時金之助像>

場所:小林市野尻庁舎(宮崎県小林市野尻町東麓1183-2)

竣工:1973年2月

像高:

作者:設楽ヒロカズ

撮影時:2022年3月29日

説明:浦之名川から18キロにわたる用水路開削で、途中サイフォンなどを用いて導水したという。

 

〇田丸貞重 (1875~1932)

 明治期から昭和初期の農政家。鹿児島県諸県郡出身。野尻原の開拓事業に尽力し、野尻地区を美田に変えた。

<田丸貞重像>

場所:小林市野尻庁舎(宮崎県小林市野尻町東麓1183-2)

竣工:1973年2月

像高:

作者:設楽ヒロカズ  

撮影時:2022年3月29日

説明:新時、田丸両氏の2人の事業は、野尻地区の発展に貢献し、『野尻原開田物語』という劇にまでなったようだ。