銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

熊本県編  その8

天草四郎時貞 (1621?~1638)

 江戸初期のキリシタンで、島原・天草一揆島原の乱)の首謀者。本名は益田四郎時貞。洗礼名は「ジェロニモ」であったが、一時棄教したため、一揆の当時は「フランシスコ」。関ケ原の戦いで西軍に属し、斬首された小西行長の家臣、益田好次の子。肥後国天草郡大矢野島(現熊本県上天草市)生まれだが、肥後国宇土郡江部村(現宇土市)や長崎生まれの説もある。生まれながらにカリスマ性があり、経済的に恵まれていたため、教養もあり、一揆の際には総大将に推された。原城址に立て籠もり、落城時に斬首されたらしい。一説には、一揆の際四郎はまだ16歳なので、実際は一揆の首謀者たちが、四郎を担ぎ上げただけだという。 

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 <天草四郎時貞像>

場所:天草四郎公園(熊本県上天草市大矢野町中977-1)

竣工: 1966年9月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月4日

説明:像は天草四郎公園の丘の上に立つ。その奥には「天草四郎之墓」もある。公園の一角には「天草四郎ミュージアム」(旧天草四郎メモリアルホール)がある。

この他に、「天草パールセンター」(上天草市松島町合津6225-7)や「藍のあまくさ村」(上天草市大矢野町登立910)にも像がある(藍のあまくさ村は石膏像か?藍のあまくさ村にはもう1体、FRP像らしきものも)。こちらは高さ5mの巨大像。 

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 (天草パールセンター)

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(藍の村あまくさの巨大像)

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(藍の村あまくさの店舗入り口の像)

 

〇森慈秀(もりやすひで) (1890~1973)

 政治家。熊本県天草郡湯島村(現上天草市)生まれ。熊本県会議員から大矢野町長(3期)。当初から天草と九州本土を橋でつなぐことを計画し、1966年に天草五橋として実現させた。 

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<森慈秀像>

場所:二号橋公園(熊本県上天草市中4434-2)

竣工: 1967年12月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月4日

説明:すみません、逆光で顔が真っ黒ですね…。天草と九州本土の架橋を戦前から訴えていたが、当初は「夢の架け橋」と冷ややかに言われていたらしい。戦後町長として架橋を推進したため、存命中にこの立像が立てられたが、その浄財は島民から予定額以上集まったという。像のたもとには、天草五橋の模型が置かれている(が、訪れた当時は気が付いていなかった)。

 

〇竹添進一郎 (1842~1917)

 外交官、漢学者。肥後国天草(現熊本県上天草市)生まれ。医者の家に生まれた。廃藩置県後東京へ出て、大蔵省、外務省に勤務、上海領事などを歴任し、甲申事変時には、朝鮮弁理公使だった。その後東京帝国大学で漢文などを講じた。

 

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 <竹添進一郎像>

場所:大矢野総合体育館(熊本県上天草市大矢野町中2289)

竣工: 1998年3月

像高:

作者:

撮影時2018年2月4日:

説明:大矢野総合体育館は、天草四郎公園から坂を上がっていく。進一郎の号は「井井(せいせい)」でちょっと人を食っているような…

 

〇富岡敬明 (1882~1909)

 官僚、政治家。肥前国小城(現佐賀県小城市)生まれ。山梨県権参事、熊本県知事、貴族院議員を歴任。書が上手く、書聖と謳われた「明治の三筆」の一人。男爵となった。中林梧竹は従兄弟。晩年は山梨県に住したため、甲府市の富岡家に敬明や富岡男爵家の資料群が伝来している。 

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<富岡敬明像>

場所:三角西港熊本県宇城市三角町三角浦1230)

竣工: 1996年10月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月4日

説明:敬明が熊本県権令のとき、神風連の乱西南戦争が起こり、熊本が焦土と化した。その後県令になった敬明が、熊本県の復興と難民救済をするために起こした事業の一つが、港湾建設であった。当初百万貫港を考えていたが、天然の良港であった三角に変更し、1887年に開港させた。像は三角西港の一角に立つ。

 

〇佐藤鶴亀人(さとうつきと) (1899~1972)

 官僚。熊本県宇土郡三角町(現熊本県宇城市)の戸馳島(とばせじま)生まれ。若くして中国に渡り、中国語やロシア語などを学び、満鉄に入社。戦後帰国後に戸馳島村長に就任し、さらに三角・戸馳・郡浦・大岳の合併を推進し、合併後の新三角町の初代町長となった(5期17年)。三角町の発展に貢献、出身の戸馳島の架橋にも尽力したが、工事中に亡くなった。

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<佐藤鶴亀人像>

場所:戸馳大橋(熊本県宇城市三角町戸馳)

竣工: 1976年9月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月4日

説明:1985年に戸馳大橋のたもとに移設し、それ以前は三角町公民館前に立っていたそうである。それにしてもすごい名前であるが、銅像の台座の説明文にも読み方は載っていない。ネットで調べたら「つきと」。読めない。近年、勤務する高校でもいわゆる「キラキラネーム」が増えたが(「稀星」で「きらら」とか)、明治期でもあったんですね、「キラキラネーム」。長生きで縁起よさそうだけど…

 

小西行長 (1558~1600)

 戦国期から安土桃山期の武将、大名。和泉国堺の商人、小西隆佐の次男として京都に生まれる。商人をしていたが、宇喜多直家に認められ武士となる。さらに豊臣秀吉に才知を認められ、家臣となった。1584年に高山右近に勧められ、キリスト教に入信、「アウグスティヌス」の洗礼名を受けた。1587年の九州平定、翌年の肥後国人一揆を討伐し、肥後国の南半国、宇土益城・八代三郡20万石余りを与えられ、宇土場を築く。関ケ原の戦いでは西軍の将として参戦し、敗戦後斬首された。 

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小西行長像>

場所:宇土城山公園(熊本県宇城市古城町163-3)

竣工:1980年

像高:

作者:

撮影時:2018年2月4日

説明:宇土城址宇土高校の脇にあり、高校とは反対側から車で入るのだが、前は墓地だし、なんか寂しい感じであった。ネットを見ると、銅像の建設時には、小西行長の評価が悪く(「狡猾」「打算的」「熊本県の寺院を焼いた」)、銅像建設に反対の市民が多く、銅像完成後2年近く、トタン板で覆われていたらしい。一方で、ヨーロッパでは評価が高く、イタリアでは行長の7年後に、行長を主人公とする音楽劇が作られたそうだ。