銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

沖縄県編   その1

 一ヶ月程度サボっていました💦。その間掲載していた地図は、私が銅像ハンティングの際に、調査し地図に落とし、実際に基づいて旅をしているものです。大方位置情報も合っていると思います。理想は、銅像ハンティング後に、撮ってきた写真を貼付することですが、元来の怠け者、なかなかそこまでできていません。

 さて、1月にハンティングしていた沖縄編をはじめようと思います。と言っても、島の多い沖縄県石垣島西表島座間味島阿嘉島久米島南大東島には行けていません。最後には地図も貼付したいと思います。

 では…

〇下地玄信 (1894~1984

 公民会計士、政治活動家沖縄県宮古郡平良間切東仲宗根(現沖縄県宮古島市)生まれ。上海東亜同文書院を卒業後、さまざまな職歴を経て、西洋のアジア侵略をおそれ、アジア民族大会から大政翼賛会で理事を務める。戦後は朝日新聞社社主故村山龍平の相続税をめぐる話から公認会計士となり、日本公認会計士協会を設立、副会長となる。1972年に沖縄の日本復帰後、平良名誉市民となり、下地育英文庫を琉球大学に寄贈、下地育英会を創設し、奨学生を送り続けている。

<下地玄信像>

場所:宮古島市熱帯植物園(沖縄県宮古島市平良東仲宗根添1166-286)

竣工:1973年11月

像高:

作者:山中靖三

撮影時:2024年1月5日

説明:宮古島に着き、最初に向かったところ。入場は無料で、植物園を名乗っているが、「公園」に毛が生えた程度か。園に入り正面右側の「チガヤ工房」の手前に立っている。「育英の父」の銘が貼られているように、左手には、氏を見上げる少女を伴っている。

 

〇眞栄城徳松 (1911~1989)

 政治家。沖縄県宮古郡平良西里(現沖縄県宮古島市)生まれ。28歳の若さで町議会議員になって以来、琉球立法院議員3期、旧平良市長2期を務める。宮古島の発展に寄与し、港湾・漁港の整備、上水道組合設立、植物園の造成、池間大橋の実現に尽くした。また宮古島毎日新聞社を創設した。

<眞栄城徳松像>

場所:宮古島市熱帯植物園(沖縄県宮古島市平良東仲宗根添1166-286)

竣工:1985年8月

像高:

作者:般若純一郎

撮影時:2024年1月5日

説明:植物園の地は、太平洋戦争中に塹壕などになって荒れ果てていたため、植物園を造成したらしい。また池間大橋の架橋を実現したという所から、2014年5月に、池間大橋の池間詰広場にも氏の胸像が作られた。こちらもおそらく同じ鋳型からの鋳造と思われる(右は池間大橋)。

 

〇盛島明長 (1880~1941)

 医師、政治家。沖縄県宮古郡下地島(現沖縄県宮古島市)生まれ。沖縄県師範学校を卒業後、一時小学校の訓導を務めたが、その後長崎医学専門学校に入り直し、1908年卒業後、郷里に医院を開業した。医業の傍ら県議会議員(4期)となり、副議長、議長を歴任、1936年には宮古初の衆議院議員となった(2期)。

<盛島明長像>

場所:宮古高校(沖縄県宮古島市平良西里718-1)

竣工:1965年9月(2014年10月現在地に移設)

像高:

作者:

撮影時:2024年1月5日

説明:宮古中学校(現宮古高校)の設立、宮古高等女学校の県立移管や宮古島測候所や池間島灯台の設立など、島の発展に寄与した。像は当初は旧宮古地方庁舎前庭に置かれ、その後旧宮古神社に移設されたが、神社の新築移転に伴い、現在地へ移設した。

 

〇石原雅太郎 (1881~1975)

 教育者、政治家。沖縄師範学校を卒業後、小学校に勤務し、佐良浜小学校長を経て、戦前に平良町長(4期)、戦後に平良市長(2期)を務める。島の三大事業(電気・水道・桟橋工事)を完成させる。

<石原雅太郎像>

場所:宮古島市役所(沖縄県宮古島市平良西里1140)

竣工:1963年3月

像高:

作者:「武」の銘あり

撮影時:2024年1月5日

説明:旧平良市役所玄関前に立っていたが、宮古島市に合併後、現在地に移設された。

当初、宮古島の像はこれだけだったのだが、現ブログを書く際にネットサーフィンしていたら「ATALAS Blog」なるサイトに行き当たり、そこにさらに2体の銅像を見つけてしまった。一人は「竹野寛才」(沖縄製糖(株)宮古工場:沖縄県宮古島市下地上地725敷地内。沖縄製糖の創業者の一人らしい)。もう一人は「比嘉財定」(比嘉地域総合施設<いわゆる公民館>:沖縄県宮古島市城辺比嘉159。ブログによると旧制第五中学校<現熊本大学>で下村湖人(『次郎物語』の著者)に、東京帝国大学柳田國男に会ったという。その後農商務省に入省し各地をめぐるが、アメリカに留学し同地に病没。何をしたかは定かではないが、郷土の名士というところか?)。再度行かねばなるまい…