銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

鹿児島県編   その15

〇床次竹二郎(とこなみたけじろう) (1867~1935)

 官僚、政治家。薩摩国鹿児島城下新照院町(現鹿児島県鹿児島市)生まれ。東京帝国大学卒業後、大蔵省に入省、その後内務省に転じ、各地を転々とする。内務官僚として原敬に近づくと登用される。その後内務次官となり、鉄道院総裁となり(最後の鉄道院総裁のため、鉄道省玄関に胸像が立ったが、金属供出で撤去)、鉄道幹線広軌化中止と鉄道路線拡張方針を打ち出した。

 1913年立憲政友会に入省し、翌年衆議院選挙で当選(8回)、内務大臣、鉄道大臣などを歴任する。原敬暗殺後の政友会内紛時に政友本党を結成し清浦内閣を支持、民政党に入閣しさらに政友会に復党するなど、政党を渡り歩いた。この間何度も首相のチャンスがあるが、果たすことはなかった(「万年首相候補」と呼ばれる)。

<床次竹二郎像>

場所:鹿児島中央駅前東口広場(鹿児島県鹿児島市中央町1-1)

竣工: 1978年10月

像高:

作者:朝倉文夫

撮影時:2020年3月22日

説明:鉄道員にとっては、役に立つ人物だったようです(鉄道弘済会の創設に尽力)。でも、大正期の鉄道広軌化を実現していれば、新幹線ももっとスムーズに作れたのかもしれない(地方の鉄道拡充が当時の政友会の売りになった)。

 

小里貞利 (1930~2016)

 政治家。鹿児島県姶良郡霧島町(現鹿児島県霧島市)生まれ。鹿児島県議会議員(6期)から衆議院議員(9期)。自由民主党総務会長、労働大臣、総務長官などを歴任。国政進出から一貫して、整備新幹線事業に携わり、「ミスター新幹線」と呼ばれた。

小里貞利像>

場所:鹿児島中央駅(鹿児島県鹿児島市中央町1-1)

竣工:2007年10月

像高:

作者:中村晋也

撮影時:2020年3月22日

説明:こちらも鉄道関係者。像は九州新幹線開業に対する小里の業績を顕彰するもの(九州新幹線新八代鹿児島中央は2004年開通<九州新幹線鹿児島ルート全線開通は2011年>)。

 

〇若き薩摩の群像

 薩摩藩が1865年にイギリスに派遣した、「薩摩藩遣英使節団」19名(留学生15名、使節団4名)を顕彰したもの。彼らは「薩摩藩第一次英国留学生(薩摩スチューデント)」と呼ばれ、現地で学んだ学問や技術は、明治期の日本の近代化に大きく活かされた。鹿児島市が人口50万人を突破したことを記念して作られた。なお、2020年10月に、使節団一員ながら薩摩藩外出身として、像に加えられていなかった堀孝之(通訳で長崎出身)と高見弥一(土佐藩出身で脱藩後に薩摩藩士となった)が加わって、19人が勢ぞろいした。そのため、私が訪れた時と像の位置や碑文の説明が変わっている。

では、メンバーを…

 <新納久脩(にいろひさのぶ):1832~1889。諱は中三。薩摩藩家老の家柄で、この遣英使節団の団長。帰国後家老。明治になると奄美大島島司となり、島民のために尽力。

  町田久成(まちだひさなり):1838~1897。遣英使節団の監査役。帰国後外務省に勤め、その後東京帝室博物館(現東京国立博物館)の初代館長となる。

  松木弘安(まつきこうあん):1832~1893。のち寺島宗則。英語が堪能で、使節団に参加時から外交交渉をする。のち外務卿として日本の不平等条約の条約改正交渉を担う。

  五代友厚(ごだいともあつ):1836~1885。遣英使節団を提案した中心人物。帰国後は薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任。明治維新後は大阪税関長などを歴任し、大阪商工会議所の基礎を作る。関西貿易社を設立するも、開拓史官有物払い下げ事件を起こす。

  市来和彦(いちきかずひこ):1842~1891。市来勘十郎。のち松村淳蔵と改名。遣英使節団でイギリスに渡ったのちアメリカに移り、アナポリス海軍兵学校を卒業、日本の海軍兵学校長として、開閉教育の発展に貢献した。

  磯永彦輔(いそながひこすけ):1852~1934。この遣英使節団の最年少。のち長沢鼎と改名。イギリスからアメリカに移り、キリスト教系の新興宗教団体に入り、教団経営のためにワイン醸造を学ぶ。教団解散後もカリフォルニアでワイナリーを経営する。

  町田実積(まちださねつみ):1847~?。町田久成の弟。町田申四郎。海軍軍事について学ぶ。帰国後家老の小松帯刀の養子となり「小松清緝」と改名するも不遇であったようだ。

  町田清次郎(まちだせいじろう):1850~?。町田久成の末弟。町田清蔵。のちにフランスに渡り、普墺戦争を視察し帰国。その後財部家に養子に入り、財部実行(たからべさねゆき)と名乗る。晩年に留学当時のことを語った「財部実行回顧談」には留学時のエピソードが収まる。

  村橋直衛(むらはしなおえ):1842~1892。村橋久成。当初命じられた島津織之助、高橋要が辞退したために留学生に加わる。しかしカルチャーショックからノイローゼとなり、1866年に帰国した。維新後は開拓史に勤め、麦酒醸造所を設立(サッポロビールの前身)して事業に成功するも、開拓史を辞めると放浪し、行き倒れとなって死んだ。2005年北海道知事公館前庭にも胸像が立てられた。

  鮫島尚信(さめじまなおのぶ):1845~1880。イギリスののちにアメリカに移り「新生社」に入る。維新後に日本に戻り、外交官となる。フランス公使に在任中に病死する。

  中村博愛(なかむらひろなり):1844~1902。イギリスでは化学を学び、さらにフランスへ留学。維新後は兵部省、工部省に出仕。その後外務省に転じて、外交官を歴任する。

  吉田清成(よしだきよなり):1845~1891。イギリスでは政治、経済学を学ぶ。帰国後大蔵省に出仕し、その後外交官となり、井上馨の元でアメリカとの条約改正にあたった。

  東郷愛之進(とうごうあいのしん):1840?~1868。イギリスでは海軍機械術を学ぶ。戊辰戦争に参戦し戦死する。

  名越時成(なごえときなり):1845~?。名越平馬。イギリスでは陸軍砲術を学ぶ。帰国後の動向は不明。

  畠山義成(はたけやまよしなり):1842~1876。遣英使節団では当番頭。新生社に入り、アメリカへ移る。またイギリスにもどったのち、岩倉使節団と共に帰国。文部省に出仕し、開成学校、外国語学校の校長を歴任。書籍館(のちの帝国図書館)や博物館(国立科学博物館)の館長などをし、フィラデルフィア万博の視察のためアメリカに渡るが客死した。

  森有礼(もりありのり):1847~1889。イギリスからロシアを視察、新生社に入り、帰国後は外務省に出仕、アメリカに駐在する。この頃から日本の教育に興味を示し、1873年に帰国後福沢諭吉らと明六社を結成。1885年には初代文部大臣となる。一夫一妻を主張したことでも有名。1889年明治憲法発布日に刺殺された。

  田中盛明(たなかもりあき):1843~1924。田中静洲。朝倉盛明と改名。イギリスからフランスに渡り、鉱山学を学ぶ。帰国後フランス語通訳を経て、生の銅山の発展に寄与、初代生野鉱山局長となる。

  高見弥一(たかみやいち):1831~1896。土佐藩士で初名は大石団蔵。土佐勤皇党に加盟し、家老吉田東洋を暗殺した。そのまま脱藩し、薩摩藩士奈良原繁の養子となり、薩摩藩に属す。イギリスでは測量や数学などを学ぶ。帰国後は造士館で数学を教え、後に沖縄県庁にも勤める。

  堀孝之(ほりたかゆき):1844~1911。長崎出身の通詞(通訳)。遣英使節団には通訳として参加。五代友厚長崎海軍伝習所に行っていたときから親交があったらしい。新納、五代らとヨーロッパを視察し帰国。パリ万博にも使節団として随行。明治になると五代の事業を助けた。>

こう調べていると、彼らの帰国後はそう幸せではなかった気がする。早死にも多いし…。

<若き薩摩の群像>

場所:鹿児島中央駅前東口広場(鹿児島県鹿児島市中央町1-1)

竣工:1982年 3月

像高:

作者:中村晋也

撮影時:2020年3月22日

説明:高見弥一と堀孝之は、私の写真では長沢鼎の坐っていた場所に入り、長沢は「黎明」と呼ばれる文物像の場所に移り、「黎明」は像の台座から群像の脇に移設された。

https://www.kagoshima-yokanavi.jp/downloads/media/5113

正確にどれが誰かはこのサイトで確認をしてほしい。

(左から町田清次郎と村橋直衛。左上に「黎明」が見える)

(左から畠山義成森有礼。左上には市来和彦が見える)

中村博愛。左奥にいるのは鮫島尚信吉田清成?)

町田久成。遠いね…)

松木弘安

(左から磯永彦輔。田中盛明。右上は松木弘安

五代友厚

吉田清成

(新納久脩。完全に真下からだ…)

(左が東郷愛之進。名越時成。右上に五代友厚がいるね)

(町田実積。左奥は鮫島尚信か?)

(市来和彦)

こう見ると、鮫島尚信がきちんと撮られていないね。