〇小村寿太郎 (1855~1911)
外交官、政治家。日向国那珂郡飫肥(現宮崎県日南市)生まれ。7人兄弟の第二子。飫肥藩の振徳堂に学び、開成学校の法学部に進む。その後ハーバード大学に留学、驚異的な暗記力で他の学生たちからは敬意を持って接したという。帰国後司法省から外務省に出仕し、イギリス、アメリカ、ロシアなどの公使・大使を務め、外相として日英同盟の締結、日露戦争後のポーツマス条約の締結、条約改正の完成(関税自主権の完全回復)を成した。
<小村寿太郎像>
場所:飫肥・竹香園(宮崎県日南市星倉5566-1)
竣工:1952年11月
像高:
作者:朝倉文夫
撮影時:2022年3月30日
説明:この像は、没後40年に飫肥出身の易学者、小玉呑象が、その偉業を称えるために依頼した。ほかに振徳堂(日南市飫肥10-2-1:三坂秋一郎・1981年11月)、国際交流センター小村記念館(日南市飫肥4-2-20-1:吉野毅・1993年?)にも像はある。
〇河野禮三郎 (1915~1989)
政治家。油津町議員、日南市議員、同議長を経て、日南市の第7代市長(2期)。飫肥城の修復、大油津港建設などに取り組んだ。
<河野禮三郎像>
竣工:2002年10月
像高:
作者:
撮影時:2022年3月30日
説明:写真を撮ったのが3月終わり。背景にもあるように、桜が散って、像や説明の銘板の上に降り積もっていた。河野氏は、飫肥城下の町並み保存にも力を注ぎ、岐阜県高山市、岡山県倉敷市とともに「町並み保存に関する要望書」を出し、「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けた。
○伊東マンショ (1569?~1612)
安土桃山時代から江戸時代初期のキリスト教徒。1582年に出発した天正遣欧使節の主席正使。日向国児湯郡都於郡城(現宮崎県西都市)生まれ。「マンショ」は洗礼名で、本名は祐益(すけます)。1590年に帰国したが、すでに豊臣秀吉がバテレン追放令を出していた。
<伊東マンショ像>
場所: 日南駅(宮崎県日南市中央通1-5-3)
竣工:1992年3月
像高:
作者:田中等
撮影時:2022年3月30日
説明:この姿や持ち物は、1586年にドイツで印刷された「天正遣欧使節」の肖像画が基と思われる(下記の写真参照。右上が伊東マンショ。右下は千々石ミゲル、左上は中浦ジュリアン、左下が原マルチノ)。https://ja.wikipedia.org/wiki/天正遣欧使節
〇和泉式部 (978?~没年不詳)
平安時代中期の歌人。越前守大江雅致の子。一説に父は式部丞であり、和泉守橘道貞に嫁いだことから「和泉式部」の名になったのではないかとされる。小式部内侍は娘。冷泉天皇の子、為尊親王。彼の死後は弟の敦道親王との熱愛が知られる。
<和泉式部像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2022年3月29日
説明:怪しい像であるが、薬師寺に和泉式部像があるのは、和泉式部が病気になった際、「日向国の法華嶽薬師寺に参拝すれば治る」とお告げに従い、参拝したところ病気がよくなったという。その帰り、川を渡れない老婆から「川を渡してほしい」と言われるが、「汚い身なりの人背負うつもりはない」と拒絶し、一人で川を渡ったところ、病状が元に戻ってしまい、薬師寺に戻る途中の「身投げ丘」で死のうとしたが、薬師如来が「ソナタの病は心の病」で告げられ、さらに熱心にお参りしたところ、病気が平癒したという。