〇仲田又次郎 (1893~1970)
政治家。延岡市の初代、9代市長。宮崎県東臼杵郡延岡町(現延岡市)生まれ。延岡町議を経て、1933年に市長に。都市計画の整備に尽力し、戦後再び市長になると、戦災復興に努め、特に橋を8個架けたことから「橋かけ又次郎」と呼ばれた。
<仲田又次郎像>
竣工:1964年2月
像高:
作者:後藤松生
撮影時:2022年3月28日
説明:ある場所は、延岡城址の旧三の丸。けっこう台座が高い。 延岡城址は、天守跡に鐘撞堂があり、1日6回市民に時刻を告げていることで有名。1878年に旧藩主内藤政擧(ないとうまさたか)の計らいで、稲田家が1996年まで鐘守として、鐘を突き続けたが、現在は市の委嘱を受けた方が突いている。
〇間野寅次郎 (?~1938)
実業家、政治家。延岡町議会議員、議長。精米業や鉄工所、銭湯などを経営し、五ヶ瀬川と大瀬川の合流点を個人的に埋め立て須崎町を作った。
<間野寅次郎像>
竣工:1959年6月 (当初像は1938年)
像高:
作者:後藤松生
撮影時:2022年3月28日
説明:間野氏の父親(間野重浩)は、高鍋藩士だったらしいが、槙峰鉱山の御用商人となり、その跡を寅次郎が継いだ。五ヶ瀬川と大瀬川の中洲というか、この二つの川の間に旧延岡の町は発達したらしいので(延岡城址はここにある)、市街地になるのだが、公園の手前はなんとなく寂れていた。延岡市自体が、旭化成の企業城下町なのだが、駅舎が「エンクロス」という図書館とスタバが入っていたり、後で書くが、野口遵記念館や延岡城・内藤記念博物館、延岡市民体育館が軒並み工事をしていたり、建て替えていたり(その結果、内藤記念博物館の後藤勇吉・内藤充愼院、体育館の磯貝一の像が撮れなかった)頑張っているのだが、駅前商店街も寂れていて、今の日本を象徴しているかな?
〇徐福
略
<徐福像>
竣工:2006年11月
像高:
作者:H.KUBOの署名
撮影時:2022年3月28日
説明:BC220年頃秦から不老不死の薬を求めて日本にやってきた徐福は、延岡の渚にあった徐福岩に船をつないで上陸し、蓬莱山は近くの今山だという。像は当初、祇園町銀天街にあったが、2019年に八幡宮に移設したという。境内にその徐福岩がある。
略
<弘法大師像>
場所:今山大師(宮崎県延岡市山下町2-3998)
竣工:1957年
像高:17㍍
作者:
撮影時:2022年3月28日
説明:この地の大師像は、江戸時代の1839年に延岡を疾病が襲ったとき、この地の信者が高野山まで行き、弘法大師像(今山大師寺)の本尊を勧請した所から始まる。その後1957年に浄罪によって日本一の弘法大師像が作られた。行ったときは写真の通り工事中でした💦
〇内藤枚擧(ないとうまさたか) (1852~1927)
日向国延岡藩の第8代(最後の)藩主。1852年遠江国掛川藩主の6男として江戸藩邸で生まれる。1862年に内藤家を継ぐ。幕末の動乱では佐幕派として活動したが、戊辰戦争では新政府に従った。明治に入り、廃藩置県後は東京にいたが、西南戦争後に延岡に戻り、延岡の発展に寄与した。
<内藤枚擧像>
竣工:1985年11月(最初の像は1917年の寿像。戦争期に金属供出されたが、1944年にコンクリート像で復元されていた)
像高:
作者:
撮影時:2022年3月28日
説明:城址の本丸広場に立つ。午前中逆光となり、.真っ黒である💦。3回も制作され、郷土に愛された人物だったことがわかる。桜祭りをやっていたが、早朝で人はほとんどいなかった。
〇甲斐奎太郎 (1874~1954)
農政家、政治家。宮崎県東臼杵郡南方町(現宮崎県延岡市)生まれ。東臼杵郡会議員から南方村長、県議会議員を歴任、農業、林業、河川・道路整備などに尽力した。特に岩熊井堰の予算から工事、竣工まで尽力し、この地区の耕地を広げた。
<甲斐奎太郎像>
場所:天下橋上流部(宮崎県延岡市天下町)
竣工:2000年3月(当初像はこれ以前に立ったことになる)
像高:
作者:
撮影時:2022年3月28日
説明:当初は「天下付し越」横にあったらしいが、市道の改修工事により、現在地に移設され、その際に損傷の激しかった像および台座が新造されたが、その年が2000年。