銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

宮崎県編   その11

〇宮崎輝(みやざきかがやき) (1909~1992)

 実業家。旭化成中興の祖と呼ばれた。長崎県南高来郡山田村(現長崎県雲仙市)生まれ。東大卒業後、日本窒素肥料(現チッソ)に入社、旭ベンベルグ絹糸に配属され、延岡工場の労働争議を解決して、1961年に社長になった。

<宮崎輝像>

場所:旭化成延岡展示センター(宮崎県延岡市旭町6-4100)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2022年3月28日

説明:野口遵と共に立っているが、車の停めにくいところだったので、像を撮るだけで精一杯で、像の作者、由来などを調べていない。

 

〇野口遵(のぐちしたがう) (1873~1944)

 実業家。日本窒素肥料(現チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを築いた。石川県金沢市生まれ。大学卒業後、宮城県の三居沢で日本初のカーバイド製造事業を始め、その後曽木電気を設立、鹿児島県の大口で曽木水力発電所を開いて、後のチッソ旭化成積水化学信越化学などの基を始める。曽木電気と日本カーバイド商会を合併して、日本窒素肥料を設立した。さらに朝鮮半島へ進出し、「朝鮮半島の事業王」の異名を取った。

<野口遵像>

場所:旭化成延岡展示センター(宮崎県延岡市旭町6-4100)

竣工:1953年1月

像高:

作者:

撮影時:2022年3月28日

説明:延岡市にとって、野口は市を発展させた大恩人である。1923年に日本初のアンモニアの製造工場を延岡市に作り、これが旭化成となっていくとともに、近隣の町村を合併させて、延岡市にすることなどもしたようだ。2022年3月段階では工事中だったが、12月に「野口遵記念館」が完成し、館内にある「野口遵顕彰ギャラリー」入り口には、胸像もある。また旭化成富士支社には胸像がある。

 

〇後藤勇吉 (1896~1928)

 日本黎明期の飛行機のパイロット。宮崎県延岡市生まれ。旧姓延岡中学校(現延岡高校)卒業後、飛行士白戸栄之助の助手となり、航空ショーを手伝うようになる。その後一等操縦士、一等飛行士の免許を取得、日本で初めての旅客輸送、日本一周飛行などを成功させる。1927年彼を含む4人が太平洋横断無着陸飛行計画に任命され、翌年霞ヶ浦から長崎県大村辺の試験飛行中に彼らの乗った飛行機が墜落し、死亡した。

<後藤勇吉像>

場所:妙田緑地公園(宮崎県延岡市東浜砂町56)

竣工:1996年2月

像高:

作者:奥村良弘

撮影時:2022年3月28日

説明:ここ以外に、出身の延岡高校(延岡市古城町3-233)、門川海浜総合公園(延岡市門川町加草5-1)に銅像がある。門川海浜総合公園は残念ながら未撮影である。この地は当初に独自で飛行訓練をした地である。

 

〇小倉處平 (1846~1877)

 官僚、思想家。日向国飫肥(現宮崎県日南市)生まれ。長倉家に生まれたが、嗣子のいない小野氏の婿養子となったため、姓を「小倉」氏に変えた。明治に入り、大学南校(東大の前身の一つ)の少舎長、大阪洋学校の大学権大丞となる。その後欧米に留学するが、明治6年の政変後に帰国すると下野した。西南戦争が起こると、旧飫肥藩でも賛同者多く、小倉も飫肥隊3番隊を率いて、熊本に向かい転戦するが、和田越の戦いで負傷してその地で療養していたが、脱出した西郷軍に追いつけずに可愛岳で自害した。

<小倉處平像>

場所:小倉處平加療の地記念堂(宮崎県延岡市北川町長井3942)

竣工: 2013年12月

像高:

作者:

撮影時:2022年3月27日

説明:この地は、小倉處平の加療の地。飫肥出身の小村寿太郎を世に送り出した偉人であり、体つきから「飫肥西郷」と呼ばれた。像は残された写真を基にした石膏かFRP像である。

 

瓊瓊杵尊 

 略

瓊瓊杵尊像>

場所:瓊瓊杵尊陵墓参考地(延岡市北川町長井)

竣工:2017年10月

像高:

作者:黒木英勝(都市美術工芸)

撮影時:2022年3月27日

説明:FRP像である。この地は瓊瓊杵尊の終焉の地で、「可愛山」である。宮内庁から「可愛山陵」として陵墓参考地となっている。今回は撮れなかったが、ここの奥の「祝子川温泉美人の湯」は、瓊瓊杵尊木花咲耶姫の間に生まれた「火遠理尊(ほおりのみこと)=山幸彦」が産湯を使った地ということで、山幸彦の像が立っている。