日本の女神。『古事記』では、神阿多都比売(カムアタツヒメ)、別名を木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)。『日本書紀』では、神吾田津姫(カミアタツヒメ)、別名を木花開耶姫(コノハナノサクヤビメ)。神話では、天照大神の命を受けて、地上界に降臨した瓊瓊杵尊から求婚を受けた。父の大山祇神は、姉の石長比売を共に嫁がせようとするが、瓊瓊杵尊は醜い石長比売を送り返し、美しい木花開耶姫命と結婚した。これに怒った大山祇神は、天神の子孫の寿命を短くしたという。
<木花開耶姫命像>
場所:ビジネスホテルかなや(宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井8-3)
竣工:1988年頃
像高:
作者:田中等か?
撮影時:2022年3月28日
説明:ビジネスホテルが私財を投じて設置したもの。この像は、2007年の7月7日に忽然と姿を消し、「すわ、盗まれたか⁉」と騒ぎになりましたが、実際はこのとき降っていた大雨(台風4号)により地盤が緩み、すぐ脇の井戸(八竜大王の井戸だそう)の中に崩れ落ちたらしい。像は無事であった。
〇戸取
高千穂夜神楽の舞の一つ。「戸取の舞」。手力雄命が岩戸を取り除いて、天照大神を迎え出す舞。勇壮で力強い。
<戸取像>
場所:高千穂観光協会入り口付近(宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井1171-1)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2022年3月28日
説明:石像である。高千穂観光協会に入る付近の「城山」交差点にある。
〇手力雄命
高千穂夜神楽の舞の一つ。天照大神が天岩戸に隠れてしまったので、手力雄命が、天岩戸を探し出すために静かに音を聞いたり、考えたりする様子を現わす。
<手力雄像>
場所:高千穂がまだせ市場入り口付近(宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井1099-1)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2022年3月28日
説明:石像。高千穂商工会は移転し、その跡地に「高千穂がまだせ市場」と「高千穂ミートセンター」のレストランなどが移ってきている。
〇天鈿女命
高千穂夜神楽の舞の一つ。鈿女の舞。天岩戸の所在がはっきりしたので、岩戸の前で天鈿女命が八百万の神を前にして、天照大神を誘い出すために踊った舞。
<天鈿女命像>
場所:高千穂神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井1099-2)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2022年3月28日
説明:石像。右手に旗、左手に扇を持っている。道の駅高千穂(宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井1099-2)にもある。こちらは桶の上で踊るFRP像である。
日本神話の神々。『古事記』では伊邪那岐神、伊邪那岐命(イザナギ)。伊邪那美命(イザナミ)。『日本書紀』では、伊弉諾神、と表記される。二神で国生み(大八洲の創成)をしていく。
場所:特産センターごかせ(宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町三ヶ所98-1)
竣工:2008年
像高:
作者:
撮影時:2022年3月28日
説明:FRP像である。五ヶ瀬町と高千穂町に跨がる「二上山」は、男岳と女岳から成り、これがイザナギ&イザナミを表わし、ここに二人の子である瓊瓊杵尊が降臨したとされる。特産センター五ヶ瀬は、もう熊本県との県境間近で、二上山からは離れていますがね…。
〇後藤寅五郎 (1865~1955)
政治家。三ヶ所村村長。日向国東臼杵郡三ヶ所村(現五ヶ瀬町)生まれ。同村の開発発展に寄与し、鳥の巣の棚田(日本棚田百選)など耕地整理から、三ヶ所用水路の開削、そして取れたお米には「寅五郎米」の名が冠されるなど、地域に貢献した。
<後藤寅五郎像>
竣工:1948年4月
像高:
作者:
撮影時:2022年3月28日
説明:石像である。浄専寺の隣の三ヶ所神社と表記してきたが、ネット上の情報では、浄専寺扱いになるようだ。
○鶴富姫 (?~?)
平安末期~鎌倉初期の伝説上の女性。平家の落人で平清盛の末孫、この地に住み着いたという。そこも鎌倉幕府から知られることとなり、追討の兵が送られることに。源平の争乱で活躍した那須与一に命が下されたが、与一が病気のため、息子の那須大八郎宗久が派遣された。この地を訪れた大八郎は、平家落人の美しい「鶴富姫」と出会い、二人は恋に落ちた。大八郎はこの地に永住を決意し、二人の間には娘ができたが、大八郎は帰還命令に泣く泣く帰還。鶴富姫は生まれた娘に婿を娶らすと、「那須」姓を名乗らせたという(那須姓の由来神話)。
<鶴富姫像>
場所:那須家住宅<鶴富屋敷>(宮崎県東臼杵郡椎葉村下福良1818)
竣工:2003年頃?
像高:
作者:
撮影時:2022年3月28日
説明:色が落ちていたものを2021年に塗装され直したそうです。
〇那須大八郎宗久 (?~?)
鎌倉初期の武士とされる伝説上の人物。宮崎県椎葉村に伝わる鶴富姫伝説で知られる。
『椎葉山由来記』(江戸時代中期編纂)によれば、1205年に日向国で平家落人を討ち、さらに椎葉に向かうが、この地の者の戦意喪失から、もはや討ち果たしたと虚偽の報告をし、そのまま椎葉に住み着いたという。1222年に鎌倉幕府から帰還命令がでたとされるが、伝説では椎葉に3年の滞在とあるので、年号と大きく矛盾する。
<那須大八郎宗久像>
場所:那須家住宅<鶴富屋敷>(宮崎県東臼杵郡椎葉村下福良1818)
竣工:2003年頃?
像高:
作者:
撮影時:2022年3月28日
説明:この地の名字は、村民の約3割が「椎葉」さん。約2割が「那須」さんなので、こんな伝説を生まれたか?